泣ける1

【富士山登り】

中1の時、仲の良い友達4人で富士山に登った。

中学生同志で富士山に登るなんて、今考えたら変な話だが、休み時間に『やっぱ日本一には登らんと』というよくわからん理由で夏休みに登りにいった。

俺を含め3人は普段運動が得意で頭が弱い典型的なスポーツ馬鹿だったが、あとの一人はどちらかというと運動オンチで体も弱く、俺達はそいつには行くのを辞めるように勧めた。

そいつも『足手まといになるのは嫌だな』と言いながら、ちょっと悲しい顔をした。

その日の夜、そいつの(分かりにくいからイニシャルでS)の母親から電話があって、『一緒に登らせてやれないかな?』と言われ、俺はちょっと躊躇したが他の2人を説得するのを約束して電話を切った。

次の日の朝、Sは『昨日おかんが変な電話したらしいけど、ゴメンな』と申し訳なさそうな顔で俺に話し掛けてきた。

『ええやん 一緒に登ろうや!』と言うと、『ほんまに?』と満面の笑みで喜んだ。

待望の夏休みになり、4人で富士山の五号目まで行くバスに乗って、富士山を目指した。4人ともやけに興奮していてしゃべり続けていた。

特に普段4人のツッコミ役でボソボソとしかしゃべらないSが一番大きな声でしゃべっていた。

5号目~6号目~7号目までは登山とはいえ、まだ緩やかな坂道でS君も息を切らせながらもなんとか登っていたが、7号目~8号目になると斜面もきつくなり、みんなでSのペースに合わせながら一緒に登った。

8号目につくと今日の寝床がある。8号目の宿だ。そこで夕飯をとる、といってもレトルトのカレーだったが、うまいうまいといいながら、みんなでほうばった。

飯を食った後、砂まじりの布団に潜り込み、『明日は晴れてご来光が見れるとええな!』などとはしゃいでいた。俺はちょっと青白い顔をしていたSが心配になり、『大丈夫か?』と聞くと、『大丈夫や!』と青白い顔をしてSは答えた。

S君に起こされ、夜中に宿を出る。

夜が明けるまでに頂上にたどりつくためには、夜中に出ないと間に合わない。

9号目に差し掛かったところでSがうずくまって歩けなくなった。

どうやら酸欠状態になったらしく、俺は8号目の宿まで酸素の缶スプレー(名前は知らない)を走って買いに戻った。

S君は苦しそうにしていたが、大分マシになり、再び頂上を目指し始めた。そしてようやく頂上についた。

頂上ではご来光を拝むための人だかりができていて、俺達もそのなかに混ざった。

数分後、空が白みはじめると、雲の中から太陽が姿をあらわした。

『スゴイな』と俺が言うとSは嬉しそうに『うん』と言った。

その時の喜びは今まで生きてきた中でも最高だ。

高校になると、4人ともバラバラになり、Sは親の都合で東京に引っ越した。

でも高校に入ってからも、他の3人とはちょくちょく会い、Sとはたまに電話で近況報告をしたりしていた。

Sはいつも自分の近況報告はせず、富士山の時の思い出話をすることが多かった。

その後、俺は浪人生で受験の真っ只中、Sに連絡することも忘れていた時にSの母親から連絡があった。

『今日息をひきとってな。。。あの子、いつも富士山の時の話ばっかりしてたわ。ありがとうな ありがとうな・・・・』と泣きながら俺に礼を言っていた。

俺が『死んだってどういうことですか!? 』というとSの母親は本当のことを話してくれた。

Sはすでに高1の終わりに、病気で高校に行かなくなり、ずっと家で静養していて、ここ数ヶ月はずっと状態が悪く、今日息を引き取ったということだった。

電話を切った後、不思議と涙は出なかった。というより、急過ぎてなにが起こったのかわからなかった。

数日立ってから、富士登山の時の写真をみたときに涙があふれてきて、涙が止まらくなった。

Sが『うん』といったあの時の嬉しそうな顔は今でもあの時のまま、俺の記憶に焼き付いている。

【不器用な父】

学生時代、書類の手続きで1年半ぶりに実家に帰った時のこと。

本当は泊まる予定だったんだが、次の日に遊ぶ予定が入ってしまったので結局日帰りにしてしまった。

母にサインやら捺印やらをしてもらい、帰ろうとして玄関で靴紐を結んでいると、父が会社から帰ってきた。

口数が少なく、何かにつけて小言や私や母の愚痴を言う父親のことが苦手で、一緒に居ると息苦しさを感じていたの私は、父が帰宅する前に帰ってしまいたいというのも、日帰り、ひいては通えない距離の学校を選んだの理由の一つだった。

父が、「お前、泊まるんじゃなかったのか」と訊いたので、「ちょっと忙しいから」とぶっきらぼうに答えると、手に持っていたドーナツの箱を私に差し出し、「これやるから、電車の中で食え。道中長いだろうから」と言った。

駅に着くと、電車は行ったばかりのようで人気がなく、30分は待たされるようだった。
小腹が減ったので、父からもらったドーナツの箱を開けた。

3個ずつ3種類入っていた。
家族3人でお茶するつもりだったんだなぁ。
でも、私が9個貰っても食べきれないよ。

箱の中を覗き込みながら苦笑した。

その直後。

あぁ、あの人は凄く不器用なだけなんだろうな―。
ふとそう思うと、涙がぼろぼろ出てきた。

様々な感情や思い出が泡のように浮かんでは消えるけど、どれもこれも切なかったり苦かったりばっかりで。手持ちのポケットティッシュが無くなっても、ハンカチが洗濯して干す前みたいに濡れても涙は止まらなくて、結局、一本あとの電車が来るまで駅のベンチでずっと泣き続けていた。

【共に咲く喜び】

妻とは学生時代から共に人生を歩んでいる。振り返ると結婚生活も10年近く。
互いに身体に異常は無いが子供ができないまま過ぎた約10年…
思えば借金をして居酒屋を開業させ丸6年、始めの頃は片田舎ということで、常連さんの集まる店となり頑張った甲斐もあり、それなりに夫婦2人で生活できていた。
ところが1~2年前から駅前の相次ぐ再開発で商業施設ができ、大手居酒屋チェーン店が続々と出店し、この頃からお客様の数が激減し常連客1人、お店の経営どころか夫婦2人が生活することさえ難しく、借金返済と生活苦で昼間も共働きの生活を余儀なくされた。
昼・夜と働いているうち私は、精神的にも参っていた頃に体調も悪くなり病院に行くとストレスと疲労からくる胃潰瘍と診断され悪化するようなら手術しなければならないと医者に言われた。
夫婦で会話することだけを支えにして必死に頑張っていたのだが妻も心労、疲労から徐々に元気がなくなっていく…。
どうにかしてこの生活から抜け出し、再び妻の心にゆとりを持たせてあげたいと考えていたのだが方法はなく思い悩んだ。
何度も何度も考えた末、「これ以上妻には…」と気付けば天井の電気にロープを吊し、首をかけていた…。
なにかあったときのためにと生命保険をかけていたので最後に妻にお店と家とまとまったお金を残し、この生活から抜け出させてあげたいと思う強い気持ちに、迷いやためらいはなかった。
薄れゆく意識の中、妻との思い出が脳裏を駆け巡り何故か"出会えた感動の嬉し涙"と"別れの悲し涙"が止まらない。
そのとき、「バターン」と吊していた電気と共に床に落ち、死にゆくことはできなかった…。
買い物から帰り、鳴り響いた音にびっくりして妻が飛び入った部屋には、死に損なってロープを首にかけ意識が半分で泣いている私。それを見て呆然とし、驚いている妻。
時が止まった…。
その晩に夫婦2人で朝まで語り合った結果、もう一度生きて頑張ろうと共にぐしゃぐしゃに泣きながら誓った。
昼に私は土木作業を、妻はスーパーで働き、死に物狂いで頑張ったのだがいっこうに脱出できない金利で膨らむ借金地獄。
2ヶ月がたった頃、お店の営業中に体調が悪いと妻が言った。
お客様もいつもの常連1人だったので無理をさせることは避け養生するようにと自宅に帰した。
何かおかしな胸の動機がして不安にかられ、そして何より妻のことが心配になり常連客に説明して、お店を閉め足早に帰った。
静まり返った自宅マンションのキッチンから異臭が…。横には椅子に座り意識を無くしたぐったりした妻と手紙が。
慌ててガスを止め、救急車を呼び病院へ運んだ。幸い命に別状なく、後遺症もなく検査の結果も異常はなかった。
入院中はお店を休みずっと妻の看病についていた私に妻は「ごめんなさい」と泣くばかり。
何度なぐさめても毎日のように泣き続け、そのたびになぐさめ抱きしめることしかできなかった。
妻も落ち着きを取り戻し、安心しホッとしたときジャンパーのポケットに入れた"手紙"を思い出し、待合室で読んだ。

「最愛なるあなたへ」
いつもいつも沢山の愛をありがとう。
朝早くから仕事に行き、夕方帰りすぐにお店へ行き夜中まで、そしてお店が終われば明日の営業分の材料の仕入れと仕込み、寝る間もなく…
このままだとあなた壊れてしまうよ。
もう見てられないよ。
私はあなたが大好きで何があってもついて行くと決めていたけど…
私が苦しいのは良いけどあなたが苦しむ姿をもう見てられないよ…
あなたは思い出したくないかも知れないけど、言ってくれたよね。
私を苦しめるぐらいなら命を絶ち、保険金で全てを清算し人並みの生活をさせてあげたいと。
私も同じ気持ちだよ!
あなたの苦しんでいる姿を見続けるくらいなら、命なんて惜しくない!
それにこれ以上現状が続けば、あなたはまた私を置いて逝ってしまいそうで不安で不安で苦しかったんだよ…
あなたが私を置いて逝けば、私は追いかけるけど…あなたには夢があるでしょ!お店にお客様が来る限り続けるって!
私の夢はあなたのそばにずっといたいだけだから…。
私は十分過ぎるくらいあなたから愛をもらった。贅沢過ぎるくらい優しさをもらった。
なのに子供生んであげれなくてごめんね。
体には異常がないのに、ずっとあなたのこと思い続けているのに何故だろう?私の母としての資格がないのかな?
けどあなたはこんな私に誰にも負けない愛をたっぷり溢れる程くれた。
本当にありがとう!あなたという人に出会えて良かった。
神様にも子供のことでは恨んだけどやっぱり感謝してるよ。
広い世界であなたに出会った幸せな私の人生は最高でした。
ずっと見守り続けます。お店、潰したらだめだよ。あなたの"夢"だから…私ができるあなたへの夢のお手伝いと思ってください。
体には気をつけてね…あんまり無理したらだめだよ。
さようなら…さようなら…大好きなあなた。
もう一度生まれ変われたなら、またあなたと出会いたいな。

私は泣きながら病室に駆け戻り、妻を強く力一杯抱きしめた。
何も言えなかった…言葉にならなかった…
そんな私に妻が、「ありがとう」と。
退院した妻と、再び朝まで語り合い共に泣きながら誓った…
2人で生きよう!2人で乗り越えようと!
今なら言える!「私は1人じゃない」と。
少しずつお店にお客様も増え"妻の笑顔"と"お客様の笑い"に囲まれながら…
そして思う…。
幸せも苦労も妻と2人。いつも胸には、妻と誓った。
「共に咲く喜びを…」

【ミルと父】

ウチにはもう10年飼っていた猫がいたんだ。
ウチの前は昔大きな広場で、その猫はその広場の片隅にある車の中で寝ていた子猫だった。
俺と姉ちゃんでその猫を家の庭まで連れ帰ってきちゃって餌とかやってたんだよね。
でも父親は物凄い猫(というか動物全般)が嫌いだったから、庭で餌をやってる俺らをいつも怒鳴りつけてた。
ある日母親が家の中で飼うことを許してくれた。なんで許してくれたんだろうなんてことは喜びに酔いしれてた俺らは気にもしなかったけど、母親も動物好きだったから隠れて餌をやってた、ということを後で聞いた。
俺と姉ちゃんで猫にミルと名前をつけた。
シャム猫と何かの雑種なんだとおもう。白にうすーい灰色の柄が入っていた。
猫に名前なんて父親には関係ないことで彼はやっぱり名前なんて呼ばなかった、というか家の中に存在するのが嫌だったんだから当然だったな。
近づいてきたら追い払う動作をしたり、自分から避けてた。
ある休日の朝、父の寝室から、彼の寝起きの低い声が聞こえてきた。
「こいつ、いつのまに寝てたんだ~…」
俺と姉ちゃんは父の声を聞いて部屋にいった。すると、ミルは父のお腹の上で寝てたんだ。俺と姉ちゃんは大爆笑。
「お父さん動けないじゃん!ミルの復讐だろ(笑」
父は予想に反して追い払わずこういった
「いったいいつまでねるんか…あついったいね…」
父の顔は相変わらず仏頂面で全然笑ってはいなかったけど、今にも笑みがこぼれそうなのを我慢してそうな顔だった。
その日から父のミルに対する態度は少しよくなった。
それに不思議なことに、ミルはいつも餌をあげたり遊んだりしてあげる俺や姉ちゃんよりも、無愛想で撫でたりもしない父親を慕ってたんだ。
昼寝は父の部屋の机のしたの座布団で、夜寝るときはだけは絶対に父親のベッドに寝むりにいってたんだ。
父の部屋は屋根裏部屋だから、急な階段を上がっていかないといけないのにわざわざのぼってたんだ。
母親も姉ちゃんも「なんであんな臭いとこでわざわざ寝るとかねー」っていってた。
しかし父親はもうミルを追い払うことも無くなった、敢えて避けることもなくなった、しかしミルという名前だけは絶対に呼ぶことはなかった。
それから、何事もなく年月は過ぎたんだけど、ある時ミルは病気にかかった。普通の猫の風邪だった。
獣医さんにも診てもらって、すぐ治る病気だといわれたんだ。でもミルの風邪は五日間たっても治らない。
でも獣医さんは、風邪でしかないうに元気になった。やっぱ風邪だったねーと俺らは安心した。
ミルはそれ以来風邪も引かなかったし、他の病気も全然かからず元気に過ごしてたんだ。
その頃には俺は高校三年、姉ちゃんはもう働き始めていた。
しかし、そんだけ経っても相変わらず父はミルのことを名前で呼んだのをきいたことがなかった。
オイとかオマエとかそんな風によんでたっけな。それに敢えて自分から撫でたりすることも、遊んだりすることも一回もなかった。
ある日、またミルが病気にかかった。獣医さんに見せるとそれはまた単に風邪だといわれた。それを聞いて家族はみんな安心した。
しかし、やはりなかなか治らない。前病気にかかった時は、五日間で治ったのに今回はもう3週間が過ぎた。
普通は2~3日で治る病気なだけにさすがに俺らだっておかしいと思った。獣医さんは、俺らにミルは詳しく検査したほうがいいかもしれないといった。
その頃からミルはいつも鼻水がいっぱいでるようになった。父の部屋にいく階段を登るのも少し辛そうになってた。
ミルの検査をしてもらうことになって獣医さんのとこに連れて行った。俺らは、ミルは風邪じゃない病気にかかっただけ、その病気みつければすぐ治るだろうねーみたいな楽観的な感覚だったんだ。
3日後に獣医さんのいった。俺は学校だったから行けなかった。
母親と姉ちゃんは、ミルの病気を楽観的に考えていた自分らとはまったく逆の絶望的なことを聞いた。
「ミルは生まれつき白血球が少なく、そして白血球の減っていく病気です…わかり易くいうと…猫の白血病みたいなものです…いまは、白血球が物凄く少ない状態です」
俺が帰ってきたのは学校が終わった6時くらいだったかな。玄関を開けてただいまーっっていつものようにいったら、もう目が真っ赤の母親が椅子に座ってた。
俺は物凄く悪い予感がした。俺は診断結果を聞く日だってことは知ってたし、それを早く聞きたくて学校の授業が手につかなかったぐらい気にしてたから、その母親の顔がすべてを物語っているのがわかった。しかし俺は母親に聞いた。
「ミルどうだったの?」
「…だめなんだって…」
「え?意味わかんないし」
「もう治らないんだって…」
「うそでしょ?風邪じゃん!治らないはずないじゃん!」
「猫の…猫の白血病なんだって…生まれつきの…」
「いや、ありえんし!まじで意味わからんて!!」
言ってる途中にもう泣いてたかな。そういって俺は走って部屋にいった。
その日の夕食の時、俺らは無言でご飯をたべてた。その時父親が帰ってきた。
父親はいつものように帰ってきて、そしていつものようにビールをだした。
しかしミルのことを気にしてるのは明らかだった。しかし自分から言うのが恥ずかしいのか、診断結果を俺らに聞かない。知ってか知らずか母親はいった
「ミルね…生まれつきの白血病なんだって…たぶん風邪は治らないだろうって…」
父親は一瞬凄く驚いた顔を半分凄く悲しそうな顔をした。だけど、すぐにいつもの父親の顔になって
「そうか…治らんはずだよな…」
そういって、父親はビールをぐっと飲んでまたご飯を食べ始めた。
俺はそれだけしか言うことないのか、と思ったが、これ以上この父親にミルのことを言っても無駄だと思い何も言わなかった。
ミルが風邪を引いてから1ヶ月を過ぎたころ、ミルはもう動くのが辛そうで、ほとんど動くことはなくなった。
いつもヨダレがでっぱなしで見ていられなかった。母親なんかは安楽死させてあげたいなんていってた。でも俺は絶対に嫌だった。
ミルを撫でると嬉しそうにしっぽ振るじゃん、ノドをこしょぐるとゴロゴロいうじゃん。ミルは餌だって自分で食べにくるし、トイレにだっていくじゃん…ミルは絶対に生きてたいはずじゃん…
そんなミルがいつも休んでいる場所は父親の机の下の座布団だった。姉ちゃんは仕事から帰ってきたら家族に挨拶よりも先にミルに会いに行った。
俺も学校から帰ったらまず何よりも先にミルを撫でにいった。
撫でてミルがしっぽを振ったのをみて初めて安心してた。
しかし、その時は突然やってきた。休日の夜、偶々父親、母、姉ちゃん、俺がそろっていた夜だったんだ。いつものように俺らはリビングでテレビをみていた。
すると、廊下の方で何かにぶつかるような音が聞こえてきたんだ。俺らはみんな廊下に走った。
そこにはミルが廊下にあるトイレにいこうとしている姿があった。ミルは動くのだってすごく辛いはずなのにトイレにいこうとしていた。
何回も転びながらそれでもいこうとしていた。ついたミルはトイレをして、また父親の机の座布団の下に戻ろうと廊下をまた歩き出した。何回も転びながら。俺らは号泣した。
「もういいよ…もういいって!」
母親は転びながら廊下を歩くミルを抱き上げようとした。
しかし、そうしようとしたその時、ミルが転んでも、もう起き上がらなくなった。
ミルの呼吸のペースがすごく速くなって、お尻からは血がでてきた。その時はミルは本当に今まで聞いたことないような声で鳴き始めた。
ウワォァーウワォァーウワォァーっていう感じだった。本当に泣いているような、もうさよならだっていってるかのような、本当にそんな感じだった。
その時だった。父親がミルの胸を、人間で言う心臓マッサージのように圧迫だしたのだ。
やったこともないくせに、見よう見まねだっていうマッサージだった。予想外とか、そんなこと考えてる場合じゃなかった。父親はもう泣きながらいった。
「ぐぅっ!死なん!!死なん!!ミル!死なんて!」
その声を聞いた時、俺は今までの人生の中で一番の声をだして嗚咽した。父親は泣きながら心臓マッサージをつづけた。
それからすぐにミルの呼吸は完全に止まった。俺も姉ちゃんも、母親もものすごい声で泣いてた。そして父親も。一番最後まで泣いてたのは父親だった。
そのあとミルの遺体はタオルでくるんでリビングに持っていった。
ミルの体をみんないっぱい撫でた。そして家族全員でその夜ずっとリビングでミルと一緒にいた。家族全員でミルのことをいっぱい話した。
そしてその時も父親はミルについて話そうとはしなかった。俺らの話を聞いて泣いているばかりだった。
でも、俺は父親もいっぱいミルのことを好きだったことがわかって嬉しかった。

【盲目の野球少年】

アメリカのとある地方に野球観戦の大好きな、
でも、目の見えない少年がいました。

少年は大リーグ屈指のスラッガーである選手にあこがれています。
少年はその選手へファンレターをつづりました。

「ぼくは、めがみえません。でも、毎日あなたのホームランをたのしみにしています。
 しゅじゅつをすれば見えるようになるのですが、こわくてたまりません。
 あなたのようなつよいこころがほしい。ぼくのヒーローへ。」

少年のことがマスコミの目にとまり、二人の対面が実現することになりました。
カメラのフラッシュの中、ヒーローと少年はこう約束します。
今度の試合でホームランを放てば、少年は勇気をもって手術に臨む、と。
そして、その試合、ヒーローによる最後の打席。2ストライク3ボール。
テレビや新聞を見た多くのファンが、スタジアムで固唾をのんで見守り、
少年自身も、テレビの中継を祈る思いで聞いています。
ピッチャーが投げた最後のボールは、
大きな空振りとともに、キャッチャーミットに突き刺さりました。
全米から大きなためいきが漏れようとしたその時、
スタジアムの実況が、こう伝えました。

「ホームラン! 月にまで届きそうな、大きな大きなホームランです!」

スタジアムは地響きのように揺れ、その日一番の拍手と歓声に包まれた。 

【孫の手】

うちには孫の手が3本あった。居間と寝室と俺の部屋。カミさんは、普通一家に1本だから捨てろと言う。
掻きたい時に掻けない辛さを訴える俺。口論になる。その後、カミさんも俺も、誰かと話すたびに
孫の手が家に何本あるか聞くようになった。結果、友達やら親戚やらがお土産にくれ、6本に増えた。
どうせならと集めはじめ、今では22本を数える。あの時口論しなければ…とカミさんは悔しがっている。
でもね、元々あった3本はみんな君からもらったものだよ。幼馴染の君は覚えてないかもしれないけど。
1本目は小学校の修学旅行のお土産、2本目は中学校の修学旅行のお土産、
3本目は中学の時の家族旅行のお土産。なんで孫の手ばかりと思ったよw

まあ、いいんだけどさ。捨てるならこの3本以外にしてくれな。

【幼馴染】

俺は凄い美人の幼馴染がいて案の定
中(挨拶程度)→高(ほぼ会話なし)と疎遠になっていったのだが
上京して大学生で一人暮らししてる時突然電話してきて
「今度、東京に住むことになったの(短大出で就職したらしい)
 知り合いが居なくて心細いからあーくんの近くに住みたい」
最初冗談かと思ったんだが、本当に上京してきて、
一緒に部屋探してあげて同じマンションの空き部屋に
住むことになった。
 
思春期の時が嘘みたいに昔みたく仲良くなって
ほとんど毎日俺の部屋に居た。
実家が隣なので里帰りも一緒。
でも、恋愛とかエロいことは一切なかった。
本当に中のいい友達。

こないだその子の結婚式に出ました。

お酌をしに行って「おめでとう」って言ったら
不意に涙が出た。その子も泣いた。
理由はわからない。
幸せになって欲しいと心から願う。

【母のデジカメ】

以前、母がデジカメを買って嬉しそうに色々撮ってたけど、
そのうちメモリがいっぱいになったらしくてメカ音痴な母は
「ねえ、これ写らなくなっちゃったんだけど…」
と遠慮気味にメールしてきたけど、俺は面倒くさかったから
「なんだよ、そんなの説明書読めばわかるよ!
 忙しいからくだらないことでメールするなよな!」
と罵倒返信してしまった。

その母が先日事故で亡くなった。
遺品を整理してたら件のデジカメを見つけたので、
なんとなしに撮ったものを見てみた。
俺の寝顔が写っていた。
涙が出た。

【阪急電車】

阪神・淡路大地震のあと、阪急電車の復旧を沿線の人々は待ち望んでいた。うちもその一軒。
夜を徹して行われる作業、騒音や振動をこらえてくださいと、電鉄会社の人が頭を下げに来た。
「何を言ってるんだ?我慢するに決まってるじゃないか。それよりも一刻も早い復旧を。」
うちも含めて、沿線の人々はみなそう言って、電鉄会社の人を励ました。

阪急は国の補助も受けず、少しづつ復旧・部分開業していった。
そして最後に残された西宮北口~夙川間の高架部分の再開によって、
ついに神戸本線は全通した。
再開の日に、もちろん漏れも乗りに行った。神戸で逝った友のもとへ行くために。
運転台の後ろは人だかりだった。みな静かに鉄道の再開の喜びをかみ締めているようすだった。

夙川を渡るそのとき、川の土手に近所の幼稚園の園児たちが立ち並んでいるのが目に飛び込んできた。
手書きの横断幕を持って・・・。

  「あ り が と う  は ん き ゅ う で ん し ゃ」

運転手が普段ならしないはずのそこで敬礼をした。
そして大きく「出発進行!」と声を上げた。
その声は涙声になっていた。漏れも泣けた。

ときよ、上越新幹線よ、もまいを待っている人々がいる。
復興のために、そして人と人をつなぐために、よみがえれ、不死鳥のごとく。

【ばーちゃん】

両親が共働きで小さい時からばーちゃんに面倒を見てもらってた。

いたずらしたら俺を捕まえるまで追いかけて体格のいい体でヒョードルばりに馬乗りにされ参ったかwwwと豪快なばーちゃん。

ばーちゃん子な俺は高校にいっても同じ部屋に寝てた。

深夜抜け出してバイクで友達の家に遊びにいくと夜中しょっちゅう俺のふとんを確認してるのかバレてよく説教うけた時期があった。

しばらくはまるめた座布団でハッタリが通じてたがやっぱりバレて朝まで寝ないで起きてたときもあった。

なにより孫の俺を一番に心配してくれるばーちゃんだった。

昔からの持病で糖尿病と高血圧持ちだったばーちゃんはよく入院していた。

田舎から町の病院にバスでお見舞いにいき、ばーちゃんとうまい焼きそばを食べるのが俺の楽しみだった。

俺が就職して彼女ができスパンスパンに夢中だった時期があり、次第にばーちゃんとの会話も少なくなってしまったのだが、相変わらずばーちゃんは彼女が部屋に一人のときに饅頭やらお茶菓子をあげたりしていたらしいw


まだ俺が就職したてで残業でくたくたになり自分の部屋にこもっていたある日

高血圧で寝込んでいたばーちゃんだが疲れてる俺に栄養ドリンクを持ってくる途中、廊下で倒れた。

高血圧による脳溢血だった。

緊急入院したが血管の破れた場所が悪く手術できずほんの数日でばーちゃんは半身不随の半分ボケた状態にまでなってしまった。

今までの入院してた時と違って別人のようなばーちゃん。

かろうじて俺や肉親はわかるみたいでご飯とか食べさせてたけど会う度にそんなばーちゃんを見るのがつらくてつらくてしょうがなかった。

次第にお見舞いにいく頻度も少なくなる俺にいつも病室の冷蔵庫からオロナミンをくれた。


そんなばーちゃんがお盆中に亡くなった。

俺は大人になって初めて親の前で泣いた。親父も初めて子供の前で泣いた。

49日が終わったある日、夢にばーちゃんがでてきた。ヒョードル時代のばーちゃんだ。

ばーちゃんは何も言わず昔のまんまの笑顔で白い前掛けのポケットからしわくちゃになった千円札を俺に渡した。

俺が就職してからもこずかいをくれてたばーちゃん。亡くなってからも俺を心配して夢に出てきてくれた。

朝起きたら顔が涙でぐちゃぐちゃだった。

ばーちゃん今までありがとう。
天国でも元気でね。

【最後のメール】

俺の父ちゃんは昔母さんを亡くし、俺と妹を一人だけでずっと育ててくれた。
父ちゃんは普段会社ではとっても真面目で無口なエリート社員らしいが、家ではいつも明るくしてくれて…母親の愛情を知らない俺たちにたっぷりと愛情を注いでくれた。
父ちゃんはビールが大好きで、酔うともっと明るくなって面白くなって…悪いところがひとつもないそんな父ちゃんが大好きだった。
そんな毎日が続くある日、父ちゃんが倒れた。俺はびっくりして妹と一緒に父さんを急いで病院に連れて行った。病院について診察室に行くと、とりあえず検査入院しましょうと医者に言われて俺たちは病院をあとにした。検査入院は一週間で、毎日毎日俺たちはお見舞いに行った。行くたびに父ちゃんは俺たちを笑顔で迎えてくれた。
こんなこともあった。俺たちがいつもどおりお見舞いに行くと、
『お前らほんまに優しいなぁ。父ちゃんほんま幸せもんやわ』と言って父ちゃんは涙を流した。初めて見る父ちゃんの涙…。本当にいい父ちゃんだな…。
一週間がたち検査結果が出た。医者があせってる。なんか妙な胸騒ぎがした。
医者は話し出した。
『落ち着いて聞いてくださいね…あなたたちのお父さんは肺がんです。いろんなところに移転してしまっていて…もう治ることは無いと思いますし…多分もって3、4ヶ月くらいだと思います…。』
の言葉を聞いたとき びっくりして動けなかったのは 今でも覚えている…。
その後家に帰って妹と一緒に泣き明かした。泣いて泣いて泣いて泣いて……。
父ちゃんともうすぐお別れと考えるだけで気が狂いそうだった。
そして次の朝、いつものとおり父ちゃんの病室へ行き父ちゃんの病気のことを告げた。すると父ちゃんは、一瞬びっくりした顔になったが、すぐに笑顔になりこう言った。
『その病気はお前らにはうつったりはせんのやな??それはよかったよ。昨日ベッドでな、私はどうなってもいいですから、息子や娘にまでうつったりするような病気だけはやめてください。私が治って子供が苦しむような病気だけは絶対にやめてくださいってずっと祈ってたんやよ。いやぁ神さまっているんやなぁ。』
そう聞き、俺は部屋を飛び出し、トイレでずっと泣いていた。ずっとずっと…。
自分がこんな病気に侵されていても、それでもまだ子供を心配してる俺たちへの愛情に…。どんだけいい父ちゃんなんだよ…。父ちゃん…離れたくないわ…。
余命宣告されてから2ヶ月後、まだ元気な父ちゃんに俺と妹から携帯電話をプレゼントした。父ちゃんは、『これでお前らともどこ行っても話せるようになるんやなぁ』と言って喜んでくれていた。
父ちゃんはメールのやり方など、必死に覚えてくれて、毎日俺たちに電話してくれてた。
そして余命宣告から3ヶ月と少したったある日…医者から電話が入った。
『お父さんの容態が急変しました。いますぐ病院に来てください!』
俺は妹を連れて急いで病院に向かった。父ちゃん死ぬな!!そう叫びながら病院に向かった。病院につき病室の扉をおもいっきり開けると……父ちゃんの顔には白い布がかぶされてあった……………。
その場で泣いた。本気で泣いた。倒れこんで泣きじゃくった…。父ちゃん父ちゃん……何で死ぬんだよ…。
家に帰ると俺のケータイが光っていた。

【未読メッセージ一件:父ちゃん】
父ちゃんからのメール??あれっ……さっき死んじゃったはずやろ…・??
受信した時間を見てみると、驚くことに父ちゃんが死ぬたった14分前だった…。
そのメールにはこう書かれていた。
『大輔、友美へ
お前らを残して逝っちまうなんてほんま最低な父ちゃんだよな。ごめんな。許してくれ。大輔、友美。父ちゃん、お前らの父ちゃんでいれてほんまよかった。もう死んでも悔いはなんもないわ。ほんまにありがとうな。幸せになるんやぞ。』
父ちゃん…死ぬ直前まで俺らのこと考えてくれてたんだ……。
そして俺は返信をした。
『父ちゃんマジでありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。あんたは最高の父ちゃんだよ。これだけは胸張って言えます。本当にありがとうね。天国行っても俺ら見守っててください』
俺は、二度と返信の返ってこないメールをもう一度読み返し、心からのありがとうを込めながら、送信ボタン押した。

【あの日に帰りたい】

俺、死ぬ前に小学生の頃を、一日でいいから、またやってみたい
わいわい授業受けて、体育で外で遊んで、学校終わったら夕方までまた遊ぶんだ
空き地に夕焼け、金木犀の香りの中家に帰ると、家族が「おかえり~」と迎えてくれて
TV見ながら談笑して、お母さんが晩御飯作ってくれる(ホントありがたいよな)
まだ歌番組とか観たいのに、風呂に入りなさいと叱られて
お風呂に入って上がったらみんな映画に夢中になってて、子供なのにさもわかってるように
見入ってみたりしているうちに早く寝なさいと言われしぶしぶ「おやすみなさい」と
暖かい空気の中、一人お部屋に戻って布団に入る

もうあの日には戻れない…・・・

【】


【】


【】


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