秋山好古(あきやま よしふる)

1859-1930

松山藩





日本騎兵の父と呼ばれる。

日本人離れした風貌で頭もよく、当時としては長身で婦人からの人気も厚かったと言われる。江戸期の質実剛健な武士の生き方を色濃く残しており、清貧を良しとする一方で並外れた酒豪としての一面もあった。

騎兵とは文字通り騎乗した兵隊だが、これは侍時代の騎馬とは全く別のものである。騎馬は、単に武士が馬に乗って個人技で敵に切り込むものであるのに対し、騎兵は索敵や奇襲を主任務としたもの。よってこの概念の存在しなかった明治初頭においては騎兵隊にかけられる期待はほとんどなかったようである。この流れを変えたのが、フランス留学・ロシア駐在で騎兵を学んだ秋山好古であり、上層部に騎兵の重要性を説くとともに、フランス式の乗馬を取り入れる事に注力した。当時の陸軍高官の多くがドイツかぶれ(軍師メッケルの影響)だった事を考えればこれは相当風当たりの強い荒行だったはずであり、後の日本騎兵は実質秋山一人によって育成されたと言ってもいいかもしれない。

長期のロシア滞在経験から対露事情に詳しかった秋山は、かの国が仮想敵国として浮上した段階で『コサック騎兵との戦闘を想定した騎兵育成』に着手した。日清戦争から日露戦争までの10年間で日本騎兵の質は大きく向上したが、馬体の質や装備、兵の層の厚さではロシア側に分がある。開戦に先立ち、秋山が騎兵の重火器を強化したのは柔軟な思考力の賜物と言えるだろうし、『見たくない現実』を冷静に受け止めて解決を図った点は多くの指導者が見習うべき美徳だろう。

日露が開戦した直後は、上層部が騎兵の特性を理解しきれていなかった事もあり、騎兵の持つ機動力を活かしきれない命令が続くも、戦争が長引くにつれ、広大な満州荒野における索敵任務が効果を発揮し始めた。秋山が方々に放った部隊や間諜が確実に機能し、露軍の行動は概ね秋山支隊の察知するところとなったのである。

日本軍が壊滅しかけた黒溝台の会戦においても、秋山支隊は事前に露軍の大規模強襲の兆しを認識、総司令部に何度も報告を上げている。が、この時の報告に関しては、総司令部参謀の松川敏胤(秋山の後輩に当たる)によって黙殺され、満州軍は潰走寸前まで追い詰められるという辛酸をなめた。それでも壊滅を防げたのは、特別に配備された機関砲をふんだんに活用した秋山支隊が、撤退せずに陣地で持ちこたえた事が大きい。逆に言えば、機関砲のない他の部隊はことごとく後退を余儀なくされており、秋山支隊が最後の砦でもあった。日本軍を壊滅から防いだ機関砲については、秋山自身が早くから上層部に執拗に掛け合った結果、特別に秋山支隊に配備されていたものであり、彼の先見の明は歴史を左右したと言ってもいいだろう。

黒溝台会戦後、秋山支隊は乃木希典の第三軍に編入され、左翼から露軍のはるか後方まで進出、しばしば露軍司令官のクロパトキンを疑心暗鬼におとしいれたと言われる。秋山はそれまでも多数の騎兵隊を索敵へと放っていたのだが、満州平野の冬は-30度にもなる厳冬である。現地の人間によれば、日本の真冬着くらいの装備の上に分厚い上着を羽織り、さらに分厚い真綿の特製コートを着、その上で分厚い毛糸や綿の帽で顔全体を覆うとの事である。屋内ですら手が凍り、書き物も容易でなく全く仕事にならないらしい。そんな寒さの中で長距離にわたる索敵を繰り返し、敵情把握に貢献した事はまさに感嘆だが、策敵部隊の中には1000km以上の距離を移動したものもあり、はたして真冬の満州でどうやってそのような大事が成し得たのか、現代に生きる我々には想像のしようもない。将兵の身になっても、馬の身になってもただただ恐れ入るばかりであり、事実、大本営のみならず、海外の従軍記者らもこれらの偉業を畏怖したらしい。

もちろん極寒に耐えたのは騎兵に限らない。当時の日本軍の防寒具はロシア軍に比してかなり粗末なものであったようで、露軍兵士らは『日本軍は寒さで長期戦に耐えられない』と踏んでいた。が、実際にはそうはならず、露軍兵士らは「貧相な防寒具のまま雪の中で眠り、翌朝には起き上がって立ち向かってくる」と日本兵の持久力に驚愕したという。厳寒に慣れたロシア人と軽装の日本人が対等に闘い得たのは、兵士の士気の違いもあるだろうが、普段から清貧を心がけてきた精神的強靭さも大きな要因と言えるのではないか。

秋山自身、普段から贅沢を嫌い、質素を心がけ、軍部内においても最後の武士として一目おかれていたというし、秋山に限らず他の著名な人物らも類似の気質の持ち主が多かったように思われる。乃木希典と秋山好古は価値観において共通した部分が多く、事実両者とも気が合ったのか親交は深かったとも言われる。また、総司令官の大山巌をはじめとする薩摩武士には貧しい事がむしろ美徳という価値観が伝統的にあり、幼少の極貧を、恥じるどころか美談として周囲に誇るほどだった。後の世で言う精神論が当たり前の日常だったと言えるが、この気質によって日本は他のアジア諸国とは異なった歴史を歩んだと断言していいのではないだろうか。

秋山は退役後、故郷松山で教鞭を取る。武勲を誇る事が一切無く、終戦から26年後に静かに息を引き取った。


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