アッツ島
アッツ島


ねずきちがいつも思うのは、戦後にGHQがでっちあげた(あえて“でっちあげ”といわせてもらいます)日本軍悪玉論や侵略戦争論に乗っかって、祖国のため生命を捧げた人たちの魂魄までも汚すような発言は、断じて許せない、ということです。

よく、「昔は、人の命は紙より軽かった。いまは生命は地球より重いとされている」などと、わけしり顔でものを言う人がいます。

馬鹿かっ!といいたくなるのです。
昔も今も、命の重さにかわりなんてない。あたりまえのことです。

むしろ個人主義が礼賛され、自分の命が脅かされないならば、他人が暴行にあっても知らんふり、といういまのご時世のほうが、よほど命を軽くみているのではないか。

それどころか、仲間を助けるために、愛する家族や恋人や妻や子を守るために、親兄弟や妻や子のいる祖国を守るために、命をかけて戦った昔の方が、よほどひとりひとりの命は重かったかもしれない。

人を愛する気持ちは、国家がひとつの共同体であった昔のほうが、いまの時代よりももっともっと重かったかもしれない。

大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となったのが、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘、世に言う「アッツ島の戦い」です。

山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。

日本軍の防衛部隊は、2,650名。

米軍が投下した兵力は、12,000名

アッツ島の日本軍の指揮を執ったのは、山崎保代大佐です。

山崎保代大佐(没後中将)
山崎保代中将


彼は、水際防御ではなく、硫黄島と同じく敵を島の高地に引き込む戦術を採用しました。
その結果上陸した米軍との戦闘は大東亜戦争の激戦のひとつとして記憶されることとなった。

1943年5月29日、山崎司令官は守備隊の生存者を司令部前に集めます。

そして、彼自身が先頭になって、米軍陣地に最後の突撃を行った。
この時点で生き残っていた傷だらけの兵士150名が後に続いたそうです。

山崎中将は、右手に軍刀、左手に日の丸を持って攻撃部隊の先頭に立ち、山の斜面を駆け上って米軍の哨戒線を突破する。
スピーカーから流れる降伏勧告を拒否し、撃たれては立ち上がって突撃した。

米軍陣地で激しい白兵戦を展開し、突撃部隊は最後の一人が倒れるまで戦い、山崎司令官も戦死した。

戦後、遺骨収集が行われたとき、兵たちのいちばん先頭で遺品・遺骨が確認されたのが、山崎中将だったそうです。

米軍戦史にも、山崎中将を「稀代の作戦家」と讃えている。

「彼の軍隊は今まで前例がない程に塹壕を利用し、最後まで岩と土とを利用して戦った。米軍は今や日本軍から何を予期すべきかを知った。」と戦訓中に述べています。

また「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と伝え、「バンザイ・アタック」の名とともに今も讃えられていると伝えています。

アッツ


この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。

辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。18日間の短いものです。

5月29日、最後の日の記述を引用します。

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夜20時、地区隊本部前に集合あり。 

野戰病院も参加す。

最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。

僅かに33年の生命にして、私はまさに死せんとす。
但し何等の遺憾なし。

天皇陛下萬歳。
聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。

18時、総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。

私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻妙子よ、さようなら。
どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。 

美佐江様 やっと4歳になったばかりだが、すくすくと育ってくれ。

睦子様 貴女は今年2月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。

政様 お大事に。 

こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん、さようなら。

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辰口氏は、軍医ですから、おそらくは山崎中将と、最後までご一緒だったものと思います。

アッツ島の日本兵


おわかりいただけますか?

亡くなられた方々は、おひとりおひとりが、私たちと同じ、息をしている人間だったのです。

瀬島竜三氏の「日本の証言」という本があります。

この本の中に、アッツ島玉砕を、陛下に奏上したときの模様が描かれています。

引用します。

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アッツ島部隊は非常によく戦いました。

アメリカの戦史に「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と記されたほどです。

それでも、やはり多勢に無勢で、5月29日の夜中に、山崎部隊長から参謀総長あてに、次のような電報が届きました。

「こういうふうに戦闘をやりましたが、衆寡敵せず、明日払暁を期して、全軍総攻撃をいたします。
アッツ島守備の任務を果たしえなかったことをお詫びをいたします。
武官将兵の遺族に対しては、、特別のご配慮をお願いします」

その悲痛な電報は、「この電報発電と共に、一切の無電機を破壊をいたします」と、結ばれていました。

当時、アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、全軍総攻撃ののちに敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、アッツ島の部隊は玉砕したわけです。

この種の電報の配布第一号は天皇です。
第二号が参謀総長、
第三号が陸軍大臣となっていまして、宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。

そして、翌日九時に、参謀総長・杉山元帥が、このことを拝謁して秦上しようということになりまして、私は夜通しで上秦文の起案をし、御下問奉答資料もつくって、参謀総長のお供をして、参内いたしました。

私どもスタッフは、陛下のお部屋には入らず、近くの別の部屋に待機するわけです。

それで杉山元帥は、アッツ島に関する奏上を終わらせて、私が待機している部屋をご存じですから、「瀬島、終わったから帰ろう」と、こうおっしゃる。

参謀総長と一緒に車に乗るときは、参謀総長は右側の奥に、私は左側の手前に乗ることになっていました。
この車は、運転手とのあいだは、厚いガラスで仕切られていました。

この車に参謀総長と一緒に乗り、坂下門を出たあたりで、手帳と鉛筆を取り出して、
「今日の御下問のお言葉は、どういうお言葉がありましたか。どうお答えになりましたか。」
ということを聞いて、それをメモして、役所へ帰ってから記録として整理するということになっていました。

車の中で何度もお声をかけたのですが、元帥はこちらのほうを向いてくれません。
車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
右のほう、つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。

それでも、その日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
「閣下、本日の奏上はいかがでありましたか」と、重ねてお伺いしました。

そうしたら、杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、

「瀬島、役所に帰ったら、すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」と、いきなりそう言われた。

それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということが、すぐ頭に浮かんで、

「閣下、電報を打ちましても、残念ながらもう通じません」と、お答えした。

そうしたら、元帥は、「たしかに、その通りだ」と、うなずかれ、

「しかし、陛下は、自分に対し『アッツ島部隊は、最後までよく戦った。そういう電報を、杉山、打て』とおっしゃった。だから、瀬島、電報を打て」と、言われた。

その瞬間、ほんとに涙があふれて……。

母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、そう思ったら、もう涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ。

それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、

「本日参内して奏上いたしたところ、天皇陛下におかせられては、アッツ島部隊は最後までよく戦ったとのご沙汰があった。右謹んで伝達する」

という電報を起案して、それを暗号に組んでも、もう暗号書は焼いてないんですが、船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、電波を送りました。

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みんな、血も涙もある人だったんです。
ボクにはね、「死人に口なし」みたいな考え方は、到底許せないんだ。

いま、これを書きながら、ねずきちは、涙でボロボロです。

そうやって戦い、死んでいった英霊に、恥ずかしくない日本を残すことが、いま、我々が生きている現代の日本人に課せられた使命ではないかと、ねずきちは思うのです。

引用元
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-546.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

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