日露戦争における満州軍参謀総長。

明晰な頭脳と、広い視野で物事を捉えられる貴重な人材として、圧倒的不利な日露戦争の勝利に大いに貢献する。

児玉は作戦立案において天才的な能力があったとされるが、同時に国際情勢や政治力学を見極め、先を見通せる能力にも長けていたようだ。明治財界の大物、渋沢栄一といえば、現在でも書店に著書が並ぶほどの人物だが、戦費調達の為にこの財界のフィクサーを説得しきったのは児玉の手柄によるもの。一度目に門前払いをくらったのち、二度目の訪問においてボロボロと涙をこぼしながら日本の行く末を語ったとされる。

日露戦争の作戦全体の設計は児玉によって組み立てられたものである為、参謀総長には当然児玉が適任だったのだが、文明開化も40年たつと前例に縛られる弊害が現れ始める。すなわち『大臣(当事児玉は内務大臣)が現場の参謀をやるのはおかしい』という話である。企業で言えば『上層部が現場にでるのはおかしい』というのと同じだろう。論の是非はさておき、結局児玉は自ら降格人事を申し出、満州軍の参謀総長を務めることとなる。当事の世論で「よくも就きたり、又よくも就かしめたり」と賞賛された児玉の英断人事は、日本軍において最初のケースであり、同時に最後のケースでもあった。メンツやプライドよりも国益を優先させる事がいかに難しいかの一例かもしれない。

開戦に先立ち、情報戦の重要さを逸早く重視した児玉は、この時代に既に海底ケーブルという着想を得ており、実際に日本海海底にそれを張り巡らせるに至っている。また、旅順攻略においては、砲兵科の常識を無視した砲台配置によって要塞陥落に貢献している。先の人事の例に限らず、児玉という人は先入観や前例、固定観念による硬直思考に陥らない点で余人より圧倒的に優れていたように思える。

作戦立案者の立場から、戦役は最長でも2年と見限っており、常に講和の設置タイミング模索を前提とした作戦運用を展開していた点で、他の人物らと決定的に異なっている。全体を大きく俯瞰しながら、現場で辣腕を振るい続ける人材が、この時代のこの場所にいたことは日本にとって幸運な事であっただろう。元々日露戦争の作戦は前任の田村怡与造によるものだったが、田村が戦前に急死するという大きな不幸の為に、児玉がそれを引き継ぐ経緯があった。フタをあけてみれば天才とされた田村の作戦にはいくつかの不備が見つかり、かなりの部分が児玉によって組み直された。田村の死は軍部関係者が青ざめる悲劇だったが、その死が結果的に戦勝に結びついた事になる。

児玉は短気で怒鳴りやすい激情家だったらしい。攻略難航する旅順に赴いた際などは、激するあまり、とある参謀の胸についた「天保銭(エリートのあかし)」を引きちぎったというエピソードがある。が、同時に情に厚く、旅順で苦戦した同郷の乃木希典とは終生親しい間柄だった。日露戦争後、明治天皇への凱旋報告の際、乃木希典は自らの非を赤裸々に文にしたためて上奏したが、この潔さ(人によっては過度に悲壮とも受け取る)と劇的な乃木の一面を児玉は愛し、しばしば軍関係者らに「見ろ、これが乃木だ」と自らの自慢のように語ったと言われている。

「理想の天分に恵まれている」とは、ドイツから招かれた軍師メッケルによる児玉評だが、多くの人がこれと似たような証言を残しているのを見る限り、彼の才はやはり生まれ持ったものが大きかったのだろう。が、一方で児玉の母親は幼少の頃の児玉の頭の悪さを危惧したらしい。そこで頭を冷やす為に井戸の水を頭からかぶる「水浴び」をすすめたのだが、7歳で始まったこの習慣は、以後50年近く続くことになった。

日露戦争後の児玉は急速に覇気が衰え、ボーっとどこかを眺めているような事がしばしばあったと言われる。日露間の講和条約締結から2年を待つ前に、児玉は脳溢血により静かに息を引き取ることになる。葬儀においては、乃木希典が降雨の中で棺によりそう姿が認められている。

尚、余談だが、湘南江ノ島にある児玉神社とは、記者などの来訪者から逃れる為、開戦前に児玉が隠遁した別荘だが、結局住民にばれてしまい、その後神社として祭られるに至っている。

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