南の島で大酋長になった男



明治の日本人はやはり気骨にあふれ、たくましかった。日本人であることの誇りを抱き、信念に基づいて世界に飛び出していった。こういう日本人がいたことを、今こそ私たちは知っておきたい。

 その人物は日本の近現代史の表舞台に登場するわけではない。近代国家、日本の仕組みをつくり上げた政治家でもなく、巨大産業を興した事業家でもなかった。しかし、日本の発展を願ってやまない骨の髄からの愛国者であり、フロンティアスピリットに富む開拓者であり、力ではなく徳をもって民を率いるリーダーであった。

 その名を森小弁(もり・こべん)という。

 『「冒険ダン吉」になった男 森小弁』(将口泰弘著)は、小弁の76年の生涯を、事実に基づいて描いた小説だ。「冒険ダン吉」は戦前の人気漫画である。未開の南の島に流された少年ダン吉が文明社会を築いていくというストーリーで、そのモデルになったと言われるのが森小弁だった。

ひ孫がミクロネシア連邦の大統領に

 1869(明治2)年に土佐藩士の家に生まれた小弁は、同郷出身の板垣退助(1837~1919)が率いる自由民権運動に感化され、10代の頃から政治家を志す。しかし、力まかせの運動は実を結ばず挫折、やがて日本の政治そのものに失望するようになる。

 折しも日本では、南洋貿易や移民で国力増強を図る「南洋進出論」が沸き起こっていた。小弁は「南洋で自由な社会をつくろう、食うに困った日本人を受け入れよう」と決意。貿易会社の船に乗り込んで、たった1人で南太平洋のトラック諸島(現在はミクロネシア連邦チューク州)に上陸する。22歳の時だった。

 トラック諸島は、腰みのを巻き、顔と体を彫青で飾った先住民が暮らす未開の土地だった。だが、小弁は現地の生活に同化するよう努めながら、日本との貿易を切り開く。

 勤勉、誠実な小弁は酋長マヌッピスの信頼を得て娘婿となり、マヌッピスのあとを継ぐ。酋長となった小弁は島民の生活向上に努め、学校や病院などの建設に尽力した。そして、偉大なリーダーとして終生島民から慕われた。

 日本の枠に収まり切らない型破りな若者が大海原に飛び出し、南の島で大酋長になる。それこそ漫画のように痛快な話だが、これは実話なのである。

 酋長となった小弁は11人の子をもうけた。現在、ミクロネシア連邦チューク州になっているトラック島には、直系だけで1000人以上の子孫がいるという。そして、2007年にミクロネシア連邦の第7代大統領になったエマニュエル・モリは小弁のひ孫である。

 作者の将口氏は「今、ミクロネシアは世界一の親日国じゃないでしょうか」と言う。決して誇張ではない。聞けば聞くほど、ミクロネシアでは日本が特別な存在であり、尊敬の対象なのだ。小弁の足跡(そくせき)はそれほど偉大なものだったのである。

小弁の口癖が現地の言葉に

── 南太平洋にそれほどの親日国があるとは知りませんでした。

将口氏(以下、敬称略) まず、空港に到着すると、日本からよくやって来たと大歓迎されます。空港で働いている職員はモリさんだらけ。みんな小弁の子孫です。

 ミクロネシアの人たちは本当に日本を尊敬していますよ。例えば、今の日本では使えない言葉ですが、現地では「アイノコ」というのが褒め言葉なんです。あの人はアイノコだよ、というのは、日本人の血が入っているということ。これは、その人が優秀だということを言っているんです。日本人に対する尊敬の念が残っているんですね。

 また、「アタラシイ」という褒め言葉もあります。「きれいだ」「新鮮だ」とかいろいろな意味で使われるんですが、「あの人はアタラシイ」というのは、すごい褒め言葉です。

── 日本の言葉が残って、頻繁に使われているんですね。

将口 トラックの人たちは今でも怒る時に「チャントシロ!」と言います。小弁の口癖がトラックの日常的な言葉になっているんです。

搾取も略奪もしなかった日本の統治

── 現地での日本人のイメージは、森小弁が植えつけたものと言っていいんですか。

将口 確かに小弁のイメージが一番大きいですね。でも、島民が見ていた日本人は小弁だけではありません。

 1919(大正8)年に、トラック諸島は日本の委任統治領になりました。その後、1937(昭和12)年頃から急激に日本人が増え始めます。そして太平洋戦争が始まると海軍の一大拠点となり、多くの軍人が駐留しました。

 トラックの人たちはそうした軍人たちと接し、やはり日本人は素晴らしいんだということを再認識します。実際に、日本が統治していた時代がトラックは一番豊かで、にぎわっていました。だからお年寄りは今でも言います。日本の海軍が一番だ。白い服を着ている海軍の偉い人たちが一番だと。

── 日本統治時代のいい印象が残っている。

将口 日本の前にトラックを統治していたスペインやドイツと違って、日本は決して搾取しませんでした。これが何よりも大きいですね。

 日本人だって未開の地の人たちを見下す部分は確かにあったと思いますよ。でも、白人のように彼らを奴隷として使うことは、決してしませんでした。

 太平洋戦争の終盤は補給ルートが絶たれ、トラックでは多くの日本兵が飢え死にしました。餓死者の数は6000人に及びます。でも、日本兵が島民に銃を突きつけて食料を略奪するようなことは、1回もありませんでした。最後の最後まで規律が保たれていたんです。

統治して学校教育するなんて世界で日本だけ

── 日本統治時代、日本が建てた学校に通うトラックの子供が、「先生から教わったのは勤労、正直、御恩です」と小弁に話す場面があります。戦前の日本の道徳教育が、遠く離れた南の島でも行われていたんですね。

将口 統治して学校教育をするなんていうのは、世界中で日本だけですよね。スペインやドイツはもちろん、太平洋戦争が終わってトラックの統治国になったアメリカも、学校教育なんてしませんでした。

 基本的に、「未開部族」の状態のままで、言われた通り働いてくれればいい、ということです。下手に知識なんて持たれると反乱勢力になって抵抗してくるおそれがあります。だから普通は教育なんてしないんです。

 でも、日本だけは違います。一生懸命学校をつくって、子供たちに教育をする。台湾でも朝鮮でもそうでした。朝鮮ではたくさんの小学校をつくって、朝鮮人のエリートが通う京城帝国大学もつくっていますよね。

 学校教育だけではなく「練習生制度」というのもありました。現地の子供が、学校の授業が終わると日本人の家に行って家事を手伝い、生活習慣を教えてもらったり、日本語を習ったりするんです。お小遣いも少しもらえたそうです。練習生だったトラックのお年寄りは、今も日本語が達者で、当時のことを懐かしがります。

 学校教育も練習生制度も、非常に変わった、日本ならではの独特の植民地統治の方法ですよね。そういうことを各地で行っていた。つくづく日本人ってすごいなと思います。

曇りのない目で人間の本質を見ていた小弁

── なぜ小弁は島民のリーダーになれたのでしょうか。外部の人間を受け入れる南の島ならではの大らかさがあったから、という要因はありませんか。

 それは確かにありますね。外部から隔絶された「僻地」にはよくあることですが、トラックも典型的な母系社会でした。父親は誰でもいいから、とにかく母親が子供を産んで子孫を残していくことが大事なんです。

 そういう土地では、違う血が入ると丈夫になって優秀になると考えられています。だから、日本人である小弁を娘婿にして子供がほしいという思いがあったはずです。

 もちろん、小弁自身にリーダーとしての資質があったことは確かです。例えば、小弁は物事の本質を見ることができる人間でした。

 トラックでは仕事をしなくても生きていけるんです。魚も果物も豊富だから、ただ煙草を吸って暮らしていても飢えはしません。

 そもそもトラックでは「生きていく」ことと「仕事」はまったく別のことなんですね。畑に行って耕したり魚を採ったりするような、生きるための営みは「仕事」ではないんです。仕事とは何らかの指示でしなければならない義務のようなものです。それは僕らにはない感覚ですよね。僕らは生きるために仕事をするけど、彼らにとっては「生きるためには仕事をする必要はない」ということです。

 それを「あいつらは劣っている、怠け者だ」という目で見てしまうと、トラックの社会で暮らしていくことはできません。

 小弁はそういう見方はしなかった。公平に物事を見て、彼らの価値観や考え方を理解し、異文化の社会に溶け込んでいったんです。

 小弁は「少しずつ教えると働くようになる」と言っていたそうです。「これをやってみなさい」と言って島民に仕事を与えると、実際に彼らは面白がってどんどん仕事をするようになるんです。

── 固定観念や常識に縛られるのではなく、人間の本質を見ていたんですね。

将口 その通りです。これは並大抵の人間にできることではないと思いますね。


筆者:鶴岡 弘之


引用元:http://news.livedoor.com/article/detail/5877345/

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