▼御神徳▼ 乃木将軍の御神徳は、「忠誠」という語に表わされます。乃木将軍の、自らに対し、父母に対し、そして国に対して、誠を貫かれたという御事績は、我々日本人が大切にしてきた精神を表しています。 乃木将軍は文武両道の神でもあります。武においては軍人として数々の武勲や御事績が示している如く、また文においては学習院院長に任ぜられ、昭和天皇の御養育にあたられるなど教育者としての御事績や、数多くの遺詠や遺墨に接して明らかなように教行両全の真の学問の神です。 また、明治天皇に殉じられるまでの30有余年のあいだ、常に将軍の意を体して忠孝・質素・仁愛の志が厚く、内助の功を尽くされ、妻として乃木将軍に殉じられた静子夫人の淑徳清操のご生涯もまた世の尊崇を集め、共に夫婦和合の神として祀られています。 |
|||
■幼少時代の父母の教育"
|
|||
■ 玉木文之進先生との出会い
|
|||
■ 萩の乱、西南の役・・・軍旗喪失事件
|
|||
■ 静子夫人と結婚
|
|||
■ ドイツ留学 大佐、少将と昇進した希典は明治19年(1886)に陸軍制度の研究視察のためドイツ留学を命ぜられました。ドイツでは任務を果たす傍ら、自国の伝統を大切にする質実な国柄、騎士道精神に触れ、自分の武士道精神をもう一度開眼させるという、じつに大きなことを学びました。ここに軍旗喪失後の自分の生き方に一つの区切れをつけたのです。心の迷いに打ち勝ち、積極的な生き方をします。軍の同僚や友人、知人は「さぞや乃木は西欧流のハイカラになって帰ってくるだろう」と思っていました。ところが帰国した乃木少将は、ハイカラどころか、家でも外でもどこに行くにもキリリとした軍服姿で通すほどのバンカラに変わっていました。乃木少将は、日本の軍隊は精神や士気がまだまだ十分なものではなく、部下の模範になるべき幹部将校の心が緩んでいるので、部下に軍人精神を高める努力をすべきであると主張しましたが、近代化を急ぐ軍部の首脳によってこの精神論は斥けられ、初めての左遷を味わうことになってしまいました。 |
|||
■ 日清戦争出征 一時軍を休職し、栃木県の那須野において農耕生活を営んでいましたが、乃木少将の意見は心有る人を中心に少しずつ軍の中心にも広がっていきました。その理解者の一人に明治天皇がいらっしゃいました。天皇は乃木少将の人となりをよく見ておられ、深い信頼を寄せられるようになりました。明治27年(1894)に日清戦争が勃発し歩兵第一旅団長として出征しました。乃木少将の見事な指揮が「名将乃木」の勇名を一段と高め、中将に昇進しました。 |
|||
■ 台湾総督
しかし、理解のない役人達に阻まれ、明治30年(1897)2月無念の涙をのんで東京に引き揚げざるをえなかったのでした。しかし乃木総督が徳を以って治めようとした業績は台湾の心有る人々に語り継がれていきました。 |
|||
■ 善通寺赴任(第11師団師団長)
|
|||
■ 日露戦争出征 日清戦争の後、欧米列強によるアジアの植民地化が進む中、大国ロシアは清国東北部に進駐し、朝鮮半島にも勢力を伸ばそうとして来ました。日本はそれを阻止すべく明治37年(1904)ついにロシアと戦火を交えることとなりました(日露戦争)。乃木中将は旅順要塞の攻略のために編成された第3軍の司令官として出陣することになりました。それ以前に長男勝典、次男保典も出征しており、静子夫人に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と別れの言葉を残して晴れ晴れしい気持ちで戦地に赴いたのでした。長男勝典(26歳)戦死の報が届いたのは、出航を目前に控えた広島でした。乃木中将は日記にただ一言「他言せず」と記し、戦地に急ぎました。戦地に上陸した日に乃木中将は大将に昇進しました。目指すロシア軍の旅順要塞は、事前の情報の3倍の兵力と火砲を備えた堅固なものでした。
|
|||
■ 水師営の会見
1月13日旅順への入場式が行なわれ、翌14日戦病死者大弔魂祭(慰霊祭)を斎行し、乃木司令官の自ら書き読んだ弔辞にヒゲ面の戦士達も涙にむせんだのでした。 |
|||
|
|||
■ 戦後の乃木将軍
殊に巣鴨にあった廃兵院(戦争によって負傷、障害を持った人を収容した施設)には毎月1、2度は訪れ、各部屋ごと一人一人を見舞い、いつも何か手土産を絶やしませんでした。時折皇室からの御下賜品などをいただいたら真っ先に廃兵院に届けました。廃兵達はこの乃木大将の厚い情に感涙し、大将の来院を心待ちにしていたといいます。 |
|||
日本軍の慰霊祭には乃木大将夫妻が参列していますが、乃木大将は自ら書いた祭文を奏上しています。ふつうは副官などが代わって書いたものを読んだりしますが、大将は全て自分で行いました。この時静子夫人は将軍夫人、第三軍司令官の妻としてではなく、二人の子息を亡くした遺族として遺族席の末席で目立たないように参列していました。 |
|||
■ 学習院院長
乃木学院院長の一日は生徒や職員と共に朝は生徒よりも早く4時半頃に起床、塩で歯を磨き、顔、手足、体を洗う。軍人としての心掛けから、余分な水は決して使わない。それが済むと、寄宿舎6寮の巡視。雨が降っても雪が降っても一日も欠かすことがない。初夏から晩秋には、それに草刈が加わる。終わって自室に戻り読書(音読)。午前7時に生徒と共に朝食。親しく声を掛け、姿勢の悪い者には注意を与える。7時半登校、8時の授業開始後は公務のかたわら各教室を巡視。一教室につき、始めから終わりまでの約1時間、後ろに厳然と立って授業を傍聴し、生徒の勉強ぶりを観察する。昼食は職員と共に職員食堂でとる。午後には武課、体操が行われ、運動場に立って生徒を注視する。放課後には剣道が行われ、これは何よりも楽しみとして自ら生徒に稽古をつける。5時に生徒と共に夕食。6時から10時までの生徒の自習時間に自室で読書(音読)。10時の消灯ラッパと共に生徒と同じく床に就く・・・以上が、学習院院長、乃木稀典の一日の生活です。 乃木将軍は、明治40年1月31日から大正元年9月13日までの5年間半、学習院院長(第10代)を務められました。その間、教育者として実践躬行の範を示し続けられたのです。院長就任の翌41年秋、東京の目白に新校舎が建てられ、乃木院長は、立派な院長官舎には 入らず、中等科・高等科の全生徒と共に寄宿舎に入り、彼らと起居を共にしました。酒豪かつ愛煙家であった院長は、一日の務めを終えてから自室で軽く一杯やっても構わないのですが、寮生活中は自制して禁酒禁煙を守りました。院長が教室で直接生徒を指導することはほとんどないからこそ、寮に住み込み、生徒に接する時間をできる限り多くして、顔と氏名を一人残らず覚えるのみならず、一人ひとりの性格や気質をしることにもつとめました。剣道、水泳合宿、遠足等いつも生徒と行動を共にしました。四谷には初等科、赤坂には女子部があって、週に何度かそちらに出向いて公務を統率し、赤坂の自宅に帰るのは 月に1~2度。この生活が殉死の時まで続いたのです。 乃木院長のこうした日常が、年少多感な生徒に多大な感化を及ぼさずにはおきません。学習院の生徒は当時、華族の子弟が大半でしたから、贅沢に甘やかされて育った者が少なくありません。寮生活を不自由・不便に思う者もいましたが、明治天皇の信任も厚い天下の老名将(在任時59~64歳)が生徒と同じ生活をしているので、不平不満を言い様もなく、在任1か月もたたないうちに生徒は乃木院長を慈父のように慕い敬い、皆「うちのおやじ」といい合うようになりました。乃木院長は、郷里の友人に宛てた手紙の中でこう詠んでいます。“寄宿舎で 楽しきことを数ふれば 撃剣 音読 朝飯の味” |
|||
■ 殉死
大正元年(1912)9月13日、この日は国民が明治天皇と最後のお別れをする御大葬の日です。午前8時、乃木将軍と静子夫人は記念写真を撮り、9時宮中に参内。午後は自宅で地方から来た多くの客と過ごしました。そして午後8時、桜田門外の近衛砲兵隊の弔砲を合図に寺の鐘が一斉に鳴り響きました。この時乃木将軍御夫妻は明治天皇の後を追って亡くなったのです。乃木将軍64歳、静子夫人54歳。御夫妻が亡くなった2階の部屋のテーブルには9月12日付で、乃木将軍が次の人々に宛てた遺言書が置かれていました。湯地定基(静子夫人の兄)殿、大館集作(乃木将軍の末弟)殿、玉木正之(乃木将軍の次弟・正誼の子)殿、そして「静子どの」・・・ 9月18日の葬儀は、約20万の人々が見守る中で行われました。日露戦争後、戦勝気分に浮かれ、白樺派や共産主義が芽生えるなど国民精神が弛緩し、明治から大正へと時代が切り替わっていく中で、乃木大将が若い頃に軍旗を奪われた負い目を30数年間背負い続けこのような最期を遂げられた事は、いわゆる忠義を働くというというだけでなく、何よりの国民への警鐘でありました。
|
|||
日露戦争で第二軍が戦った南山に乃木希典が第三軍の参謀たちと訪れたのは六月六日のことであった。 南山の焼けた山裾がここで起こった激戦を生々しく訴えていた。 それでも足下には花も咲いている。 「野に山に 討死なせし 益荒男の あとなつかしき 撫子の花」 この南山の戦いで乃木の長男勝典も戦死している。 乃木も坂を登る。 しかし、乃木の足もとは常に薄暗い。乃木は左眼が見えないのだ。そのために自然と足もとを見ながらゆっくりと歩く。その左足も若い頃に負傷して引きずるような歩みである。 俯きながらゆっくりと坂を登っていく。用心深く確かめるように、ゆっくりと、そして、足もとの撫子の花には気がつくが、頭上を染める青空を遂に見上げることはなかった。 乃木希典は東京麻布の長州藩上屋敷で生まれ育った。幼名 「無人 (ナキト) 」 。 十歳頃、父親の左遷で長州へ一家は戻される。これより一家は貧窮を味わう。 乃木は左眼が見えない。幼い頃母親に蚊帳の留め金で叩かれたのが原因である。 母・寿子はヒステリックな女性で時にその癇癪が爆発して乃木を傷つけた。 それが幼い希典にはよく理解できない。希典はいつ豹変するか分らない母親を恐れて育った。 長州に帰ってからの希典を待っていたのは郷土の友達の苛酷な虐めであった。 希典の憂鬱はまた一つ増えるのであった。この頃、泣き虫 「無人」 といわれていた。 乃木希典が生まれた嘉永二年からの長州藩はまさに維新の嵐の中にあった。 乃木は武士の子に生まれたが心根の優しい資質で他の無邪気な子供達のように、この風雲にあって武将として名を成しえるなどとは思わなかったし、望まなかった。 成長しての乃木がそうであるように詩文の才能は群を抜いていたといえよう。想像力も豊かだった。 しかしその想像力は、同時に臆病とか気弱さにも姿を変えるものだ。そして優しい妹思いの兄でもあった。 乃木は文学という当時何の足しにもならない才能で身を立てたいと漠然と夢想していた。 その淡い文学少年の夢を木端微塵に壊したのが叔父にあたる玉木文之進である。 彼は吉田松陰の叔父であり、その意味では乃木は松陰とも縁続きにあたる。 文之進は松下村塾の創始者で松陰を教え、松陰がその後を継いだ。 長州幕末の梁山泪・松下村塾はこれをいう。 松陰の死後、文之進は松下村塾を再開させていたのだが、その叔父に自分の志を父に理解させてほしいと願い出た。ところが、その 「できれば学問で身を立てたい」 という志が文之進の逆鱗にふれてしまう。 乃木は仰天した。なぜここまで激怒するのか理解できなかった。 しかし、乃木は幼い頃から相手に強く出られると萎縮してしまう質だった。 自分の意思とは裏腹に自分の思い違いを侘び、どうか門弟にと懇願してしまう。 結局文之進の妻の仲介でその日から住み込みで入門するはめになるのだ。 ここで乃木が叩き込まれたものは 「質素、倹約、勤勉」 の教えであった。 当時の江戸末期の武士のあり方としてはピッタリくる教えだったのだろう。というよりも、この文之進は松陰の師であり、その教えは二世代前のものだった。 時勢は討幕に傾き、文武農の三道というよりも分化、専門化というのが新しい流れだったようである。 本人の予期せぬ意外な展開から乃木は体で武士のあり方を教え込まれたわけである。 十九歳になって明倫館に入学。しkし、乃木はなかなかモラトリアム期間を抜け出せない。 ここでも兵学寮と文学寮の選択に悩む。なんとか学問で生きていけないものかと、まだ模索しているのだが、時代はそんな悠長な時ではない。明治という時代がすでに始まろうとしているのだ。 そして、従兄・御堀耕助 (ミホリ コウスケ) の欧州視察に下僕としてでも随行したい旨を願い出る。 「下僕でもいいとは何事だ!」 ここでも腰の定まらない乃木に 「文人で立つのか、軍人で立つのか」 と御堀からきつく詰問される。 文之進の時もそうだが、希典は相手に厳しく問いただされると途端にそれまでの自分の思いを取り下げてしまう傾向がある。自分自身にビジョンがないというか自身をまったく持てていないのだろう。この件で彼は百八十度考えを方向転換して軍人になる決心をする。 こうして軍人乃木希典が誕生する。 第二次長州征伐に参加して小倉口で左足の甲を負傷。生涯足を引きずって歩くことになる。 戊辰戦争が終わると児玉源太郎たちと一緒に日本陸軍の予備施設に入るが、そこで必ずしも士官が約束されているものではないと分ると見切りをつけて長州へ帰ってしまう。 この時残った児玉は軍曹から軍隊生活をスタートさせている。児玉との付き合いはこの頃すでに始まっているから古い。 明治八年。長州閥の恩恵を受けて乃木は少佐として任官する。 真新しい軍服で記念写真を撮り、少佐の階級をつけて出歩いた。 乃木の生涯でこの時が一番嬉しかったそうだ。 しかし、西南戦争では軍旗を奪われるという災難に遭遇する。 乃木の指揮官としての問題をここから指摘すると色々と物議を呼ぶので、ここでは災難に遭遇と表記する。 この失態で乃木は深く傷つく。自殺まで考えた。いや未遂だが決行もした。 「乃木が死ぬ」 と親友の児玉も大層心配し奔走した。児玉にとってこの親友は放ってはおけない存在だった。 児玉は乃木の不器用な正確を愛した。この異質な性格の二人の交流は生涯続いていく。 この事件は後の日露戦争において、児玉が旅順へ向かう伏線となるのである。 長州閥の恩恵でその後の乃木は順調に昇進していった。しかし、乃木の心には軍規紛失の汚点が今なおしこりになっていた。 乃木の戦下手は定着していた。皮肉にもそれを証明させたのは親友の児玉源太郎である。 その頃、児玉も順調に昇進を重ねて乃木と同列の大佐になっていた。 二人は連隊長として習志野で演習試合に明け暮れていたが、応変の才に欠ける乃木は毎回児玉に負けている。 悪意などないのだがそれを児玉がからかう。「乃木の戦下手」 と。 もとより、このことは乃木自身が一番知っている。 乃木ははにかむように、笑っているのか泣いているのか分らない何ともいえない表情を身に付けていた。乃木にとっては軍隊は自分に不似合いな居心地の悪い場所だったのだろう。 そして、その精神の均衡を保つために酒に頼った。酔えばその居場所とあり方を確認できたような気分になった。 周囲には酒乱として迷惑をかけてしまい翌日はその顛末から反省を繰り返すのだが、日が経つとまた確認しなければならない衝動に駆られてしまう。 また、母親の寿子が酒乱の質であったことから遺伝もあったのだろうか。 結婚してもその癖は直らず、夫人は幼い子を抱いて別居もしている。 その乃木に一つの転機が訪れる。明治十九年のドイツ留学がそれだ。 川上操六と共にドイツに赴いた乃木はドイツ陸軍の勇壮な隊列に目と心を奪われた。 この留学は当然、軍事教育の一環だったが、そこで乃木が学んだものは 「軍人としてのあり方」 であり、 「軍人とはどうあるべきものか」 という軍人精神の具現化であった。それは礼法、服装に及び、スタイリスト軍人・乃木希典がここに再生されたわけである。 高級軍人として現場の指揮官として、本来は戦略・戦術で己を表現しなければならない。 それが出来ない乃木にとって精神主義と規律主義は理解できたのだろう。 それを体現できる礼法と服装は乃木の肌に合った。 それを無能者の絶好の隠れ場所という見方もできるのだが。 帰国後、乃木は変身した。酒も控えた。清廉の人になった。 理想的な軍人であろうと努めた。しかし、それで軍人の評価が高まるほど軍隊は甘くない。 日清戦争後、中将となり台湾総督に任命されるが、上手く行政能力を発揮することは出来ず、明治三十一年に休職。再度復職してまた休職、予備役へ編入され、那須野で 「百姓」 としての生活を送っている。 ここでの乃木の評判はすこぶるいい。これで軍人に向かないと本人が一番理解していた乃木希典の軍人生活にも終止符が打たれるはずであった。 硝煙の匂いが漂う南山で乃木は詩を読んだ。 山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽 乃木は常にこうである。第三軍の司令官としてこれより旅順要塞を攻略せねばならないのだが、奥第二軍が強いられた過酷な現実から学ぶよりも詩文として感じ入ってしまうのだ。 海軍は旅順港の要塞砲に守られるロシア太平洋艦隊にてこずっていた。そして、陸軍に陸上からの攻撃を依頼する。 そこで第三軍が編成された。司令官は乃木希典である。乃木とその参謀、そして、第三軍の兵士達は、これから旅順に根を張った近代要塞と戦う。 それは生身の人間が肉弾として、鉄とコンクリートを砕かねばならない戦いである。 それをやったのが乃木希典率いる第三軍であった。 |
乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団及び第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった。 明治37年(1904年)6月6日、乃木は塩大澳に上陸した。このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている。 第3軍は、6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回目の、10月26日に第2回目の、11月26日に第3回目の総攻撃を行った。 また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した。 乃木はこの戦いで正攻法を行いロシアの永久要塞を攻略した。第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となり(当時の軍装備、編成で要塞を早期攻略するには犠牲覚悟の強襲法しかなかった)、乃木の指揮について例えば歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べたほどである。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となった。 乃木は補充のできない要塞を正攻法で自軍の損害を抑えつつ攻撃し相手を消耗させる事で勝利出来る事を確信していたが、戦車も航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞に対する攻撃は極めて困難であった。第3軍は満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したが、十分な補給がおこなわれる事はついになかった。 旅順攻撃を開始した当時、旅順要塞は早期に陥落すると楽観視していた陸軍内部においては、乃木に対する非難が高まり、一時、乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上した。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれている。 また大本営は度々第三軍に対して直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示を出し、混乱させた。特に203高地を攻略の主攻にするかについては第3軍の他にも軍が所属する満州軍の大山巌総司令や児玉源太郎参謀長も反対していた。それでも大本営は海軍側に催促された事もあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木達を混乱させた。 乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられた。 11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死した。長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、2人なくした人もある」という俗謡が流行するほどだった。 明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり抵抗も不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリ(ステッセルとも表記される)は、乃木に対し、降伏書を送付し、同月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した。 なお、この戦いに関する異説として旅順に来た児玉源太郎が指揮をとって203高地を攻略したというものがある。この異説は司馬遼太郎の小説が初出で世に広まり、以降の日露戦争関連本でも載せられる程となったが司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない。203高地は児玉が来る前に1度は陥落するほど弱体化しており再奪還は時間の問題であった。 また、この戦いで繰り広げられた塹壕陣地戦は後の第一次世界大戦の西部戦線を先取りする様な戦いとなり鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地に機関銃や連装銃で装備した部隊が守備すると如何に突破が困難になるかを世界に知らしめた。他にも塹壕への砲撃はそれ程相手を消耗させない事や予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であるなど第一次世界大戦でも言われた戦訓が多くあった。しかし西洋列強はこの戦いを「極東の僻地で行われた特殊なケース」として研究せずに対策を怠り第一次世界大戦で大消耗戦となってしまった。 |
旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセリと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセリが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう要請した。 これを受けて、乃木は、ステッセリに対し、極めて紳士的に接した。すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセリに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた。 また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた。 こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され、賞賛された。 また、この会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された。 乃木は、1月13日に旅順要塞に入城し、翌14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。 その姿は、日本語が分からない観戦武官及び従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の意訳を求めた。 |
乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。 ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。 旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍は進軍開始直後は予定通り進撃していた。 しかし西端こそが第3軍である事に気付いたクロパキトンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。 第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された。 その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こういった第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上であると誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部及び中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した。 アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォッシュバンは、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた。 |
乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。この際、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうこと及び樺太すべてを割譲させることは困難であること等を述べている。 明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。明治39年(1906年)1月1日から5日間、旅順に滞在して砲台を巡視した後、大連を出航し、同月10日には宇品に、14日は東京・新橋駅に凱旋した。 乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した旅順要塞の攻略が極めて困難であったことや、二人の子息を亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた。 乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、戦死して骨となって帰国したい、日本へ帰りたくない、守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい、箕でも笠でもかぶって帰りたい、などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った。 凱旋後、乃木は明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。 自らの作戦指揮については旅順攻囲戦では半年の月日を要した事、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかった事、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかった事を上げて、甚だ遺憾であるとした。 乃木は、復命書を読み上げるうち、涙声となった。さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる。 |
旅順攻囲戦は日露戦争における最激戦であったから、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価され、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に、水師営の会見におけるステッセリの処遇については、世界的に評価された。 乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また、子供の名前や発足した会の名称に乃木や乃木が占領した旅順(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した。 加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニア及びイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された。 |
◆明治天皇による勅命 明治40年(1907年)1月31日、乃木は学習院院長を兼任することとなったが、これには明治天皇が大きく関与した。 山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を明治天皇に内奏した。しかし、明治天皇はこの人事案に許可を与えず、自身の孫(後の昭和天皇ら)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院院長に指名した。 明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を無くした分、自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれる ◆乃木式教育 乃木は、当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって指導に努めた。また、乃木は、剣道の教育を最重要視した。時には、日頃の成果を見せよといって、生徒に日本刀を持たせ、生きた豚を斬らせることもあった。 こうした乃木の教育方針は、「乃木式」と呼ばれた。 ◆生徒からの評判 乃木は、自宅へは月に1、2回帰宅するが、それ以外の日は学習院中等科及び高等科の全生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にした。乃木は、生徒に親しく声をかけ、よく駄洒落を飛ばして生徒を笑わせた。 学習院の生徒は乃木を「うちのおやじ」と言い合って敬愛した。他方で、そうした乃木の教育方針に反発した生徒たちもいた。彼らは同人雑誌『白樺』を軸に「白樺派」を結成し、乃木の教育方針を非文明的であると嘲笑した。これらの動きに乃木は、以前から親交のある森鴎外にも助言を求めている。 ◆昭和天皇の養育 明治41年(1908年)4月、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力した。昭和天皇は、乃木を明治天皇が崩御してから(といっても、乃木は崩御からわずか3ヶ月程で殉死する)は、その遺言に従って「院長閣下」と呼び、後に自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しんだ。 当時、裕仁親王は皇居から車で学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったという。 |
◆自刃前の乃木 乃木は、大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)及び光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。当時10歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという。 ◆自刃 大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった。 当時警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況等について詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している。 乃木は、大正元年(1912年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。 将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世等を作成し、心静かに自刃を断行した。 夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、将軍にやや遅れて絶命した。 乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた。 乃木は、以下のような辞世を残した。 「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」 「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」 また、妻の静子は、 「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」 という辞世を詠んだ。 なお、乃木の遺書には、遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく旨の記載等があり、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提とした。 |
乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。乃木を慕っていた裕仁親王は、乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついた。 乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。特に、ニューヨーク・タイムズには、日露戦争の従軍記者リチャード・バリーによる長文の伝記と乃木が詠んだ漢詩が2面にわたって掲載された。 一方で上記の乃木の教育方針に批判的だった白樺派の志賀直哉や芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を「前近代的行為」として冷笑的で批判的な態度をとった。 これに対し夏目漱石は小説『こころ』、森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書き、白樺派などによってぶつけられるであろう非難や嘲笑を抑えようとした。 乃木夫妻の葬儀は、大正元年(1912年)9月18日に行われた。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列した。その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された。 第三軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死を聞いて、『乃木大将と日本人』(原題『Nogi』)を著し故人を讃えた。 |
◆日露戦争における自責の念 乃木は、日露戦争において多くの兵を失ったことに自責の念を感じていた。 時間があれば戦死者の遺族を訪問し、『乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べた。 東郷平八郎及び上村彦之丞とともに長野における戦役講演に招かれた際、勧められても登壇せず、その場に立ったまま、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります」と言って落涙し、それ以上何も言えなくなってしまったこともあった。 ◆戦傷病者へのいたわり 癈兵院を再三にわたって見舞い、多くの寄付を行った。乃木は、他者から寄贈を受けた物があると、そのほとんどを癈兵院に寄贈した。そのため、癈兵院の入院者は乃木を強く敬愛し、乃木の死を聞いて号泣する者もあり、特に重体の者以外は皆、乃木の葬儀に参列した。また、癈兵院内には、乃木の肖像画を飾った遥拝所が設けられた。 上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵のお礼を述べる手紙が乃木宛てに届き、乃木は喜んだという。 ◆辻占売りの少年 少将時代の乃木が訪れた金沢の街で辻占売りの少年を見かけた。その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年に当時としてはかなりの大金である金2円を渡した。 少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順攻囲戦を絡めた上で脚色され「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談ダネで有名になった。 ◆楠木正成に対する尊敬 乃木は楠木正成を深く崇敬した。乃木の尽忠報国は正成を見習ったものである。乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたものである。そして、乃木は楠木正成について次のような歌を詠んでいる。 「いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき 根も幹ものこらず朽果てし楠の薫りの高くもあるかな」 国史学者笹川臨風は、「乃木将軍閣下は楠公以降の第一人なり」と乃木を評しており、伏見宮貞愛親王は乃木について、「乃木は楠木正成以上の偉い人物と自分は思う」「乃木の忠誠、決して楠公のそれに下るべからず」と述べている。 |
◆質素と謹厳の代名詞 乃木が学習院院長に就任した後の明治40年(1907年)ころ、「乃木式」という言葉が流行した。大正4年(1915年)には『乃木式』という名称の雑誌も発行され、乃木の人格は尊敬を集めていた。 当時、乃木は、質素と謹厳の代名詞だった。 乃木は、生前及び死後を通じて詩や講談の題材に取り上げられ、伝記も数多く出版された。それら乃木を題材とした作品群は、「乃木文学」と言われた。 なお幾つかの文献では、元帥となった記述があるが、乃木は元帥だった事実は無い(元帥号を賜る話はあったが、本人が固辞したため)。 ◆殉死に対する評価・議論 殉死直後から日本国内の新聞の多くはこれを肯定的に捉え、乃木の行為を好意的に受け止める空気が一般的であった。 新渡戸稲造は「日本道徳の積極的表現」、三宅雪嶺は「権威ある死」と論じ、徳冨蘆花や京都帝国大学教授・西田幾多郎は、乃木の自刃に感動を覚え、武士道の賛美者でも社会思潮において乃木の賛同者でもないことを明言していた評論家の内田魯庵も、乃木の自刃に直感的な感動を覚えたと述べている。 このような乃木の武士道的精神を評価する見方がある一方で、殉死は封建制の遺習であり、時代遅れの行為であると論ずる見方もあった。東京朝日新聞、信濃毎日新聞(主筆は桐生悠々)などが乃木の自刃に対して否定的・批判的な見解を示した。 さらに、時事新報は、学習院院長などの重責を顧みず自刃した乃木の行為は武士道の精神に適うものではなく、感情に偏って国家に尽くすことを軽視したものであると主張し、加えて、もし自殺するのであれば日露戦争の凱旋時にすべきであったとまで述べた。 また、白樺派は、生前の乃木を批判していたが、乃木の自刃についても厳しく批判した。特に武者小路実篤は、乃木の自刃は「人類的」でなく、「西洋人の本来の生命を呼び覚ます可能性」がない行為であり、これを賛美することは「不健全な理性」がなければ不可能であると述べた。 社会主義者も乃木の自刃を批判した。例えば、荒畑寒村は、乃木を「偏狭な、頑迷な、旧思想で頭の固まった一介の老武弁に過ぎない」と評した上で、乃木の行為を賛美する主張は「癲狂院の患者の囈語」(精神病患者のたわごと)に過ぎないと批判した。 乃木の殉死を否定的に論じた新聞は、不買運動や脅迫に晒された。例えば、時事新報は、投石や脅迫を受け、読者数が激減した。 京都帝国大学教授・文学博士である谷本富は、自宅に投石を受け、京都帝国大学教授を辞職せざるを得なくなった。 谷本は、乃木の「古武士的質素、純直な性格はいかにも立派」と殉死それ自体は評価していたが、乃木について、「衒気」であるから「余り虫が好かない人」であり、陸軍大将たる器ではない旨述べたことから、否定論者と見なされたのである。 乃木の死を題材にした文学作品も多く発表されている。例えば、櫻井忠温の『将軍乃木』『大乃木』、夏目漱石『こころ』、森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』、司馬遼太郎の『殉死』、芥川龍之介の『将軍』、渡辺淳一の『静寂の声』などである。この中で大正時代に刊行された芥川の『将軍』は乃木を皮肉った作品で、大正デモクラシー潮流を推進するものであった。 |
旅順攻略戦中は一般国民にまで戦下手と罵られた。もっともこれはウラジオ艦隊捕捉に手こずった上村彦之丞中将と同じく結果が中々出ないのを批難したものであり、旅順を攻略するとそれは称賛に変わった。 さらに水師営の会見をはじめとする、多々の徳行、高潔な振舞いにより、稀代の精神家として徐々に尊敬の対象に変化していった。諸外国には各国観戦武官から乃木の用兵が紹介され、対塹壕陣地への正攻法が後年の第一次世界大戦で大々的に取り入れられるようになる。 また失敗した白襷隊の攻撃もドイツで研究され浸透戦術の雛型になった。各国報道機関では乃木を日本軍の名将として紹介している 。 また明治時代の日本人の地位を大きく向上させることに一役買った。 また、日露戦争での日本の勝利は、ロシアの南下政策に苦しめられていたオスマン帝国で歓喜をもって迎えられた。乃木はオスマン帝国でも英雄となり、子どもに乃木の名前を付ける親までいたという。 |
学習院の院長である乃木は、学習院の特別講演に海軍の統合平八郎を招いたことがある。 希典にすればこの日本海軍の名将が、希典ごのみの克己・禁欲 (ストイシズム) ふうな教訓を生徒達にしてくれると思ったのであろう。 しかし、本来、東郷という人は若年のころから忠義忠誠などという言葉をことさらに言わぬ人物であった。東郷だけでなくこれは薩摩士族の共通性格であり、かれらは例えば西郷や大久保でさえ、忠義や忠義哲学についてあらたまって語ることをしなかった。 島津時代からこの藩の士風で、忠義などは人が飯を食うがごとく当然の事であり、それを殊更に言挙げするのを恥じる風さえあった。 これとは逆に希典の育った長州は観念の論議を喜ぶ風があり、しきりと忠を言い、それを終生言挙げしつづけることをもって武士たるもののほむべき骨柄としていた。 東郷の話は、希典の期待に対して漫談であった。平素無口で知られた東郷が、この日にかぎってはひどく言葉がはずみ、しかも冗談が多く、このため児童、生徒は笑いさざめき、講堂の雰囲気はともすれば希典のもっとも嫌う弛緩の状態になった。 希典はこれに対し、彼独特の暗さを注入して時に粛然たらしめねばならなかった。彼は苦りきった顔で、ときに立ち上がった。満堂はそれをおそれ、陽が翳ったように静かになった。 東郷の講演はまとまった主題がなく、いわば座談であった。ときに生徒を指さし、彼から質問した。 ----- おまえは、何家の子か。 と、その家名を聞き、 「将来何になるつもりだ」 と聞いた。 何人目かに軍人になる、と言った子があった。東郷はその子を覗き込むようにして笑い、 ----- 軍人になれば死ぬぞ。 と、からかうように言った、おばけだぞ、といったようないかにも罪のないおどけ方であり、つづいて彼は言った。 ----- おなじ軍人になるなら海軍に入れ。海軍なら死なないから。 といった。それを聞いた時、希典は極度に苦りきった。子供たちは講堂を揺るがすほどに笑った。 やがて東郷が演壇を降り、控え室へ去ったあろ、希典が演壇にのぼった。もうそれだけで講堂の中からざわめきが消えてゆき、沈黙に戻った。 「静粛にしなければならない」 希典はそう言い、しばらく壇上で黙っていた。 東郷のあの洒脱すぎる話について何事かを解説したかったのであろう。 軍人にとっては死は当然であり、死への行動こそ忠誠の究極の道であるということを説きたかったに違いなかったが、あるいは東郷への批判になるかと思い、それをつつしんだ。希典はそのまま演壇を降りた。 ここに乃木と東郷の性格の違いがよく表れている。 真面目で不器用な乃木に対し、 東郷は普段こそ無口だが、根が明るく豪傑な人物だった |