■その後の物語
「明治天皇との仲」
希典の生涯における最後の休職時代である明治三十五年十一月、北九州において大演習があった時も、
明治帝は、雨中を駆け回る希典の姿を眺め、侍従の藤波言忠 (コトタダ) 子爵をかえりみて言った。

「誰でも休職になれば殆ど演習には出て来ない。が、彼は必ず出て来、あのように泥の中を駈け、雨に濡れそぼっている」と言われた。

帝はこの大演習のために北九州に下られる途中、長府に二日間泊まられた。
----- これは乃木の故郷だな。
と、何度も言われた。

帝の希典への信任の篤さは宮中では女官さえ知っていた。


明治帝は、希典が好きであった。彼を学習院長にしたのも帝であった。凱旋後の希典のために元勲の山県有朋は別な職を用意しようとしたが、帝が自ら発案し、希典の剛直をもって貴族の子弟を感化させようとし、
----- 乃木を学習院の院長にせよ。
と直命した。あわせて宮内省御用掛という立場を与えるよう指示したのも帝であった。
帝は希典を宮廷においてしばしば見ようとした。他の華族は年に数度、定められた儀礼の日に儀礼の奉伺をするだけでよく、それ以外に宮廷に用もなかったが、伯爵乃木希典にこの二つの職を与えておけば彼の参内の機会はふえるであろう。

明治帝は、希典に対して格別な態度をとることをつつしまれたが、気配には出た。そのことを宮廷人たち全てが感じていたが、誰よりも希典自身が感じていた。


明治四十二年のあるとき、帝はやや重い風邪を召された。
希典は飛び上がるほどの驚きを見せ、お熱は、供御 (クゴ) は、していつからでありましょう、などと問い、ついにいちいち返事を聞くのももどかしくなったのか、いきなり帝の寝所に行こうと思ったらしい。

内庭には白い大粒の白川砂が敷き詰められており、その上を希典が歩くと砂がはげしくきしんだ。希典の長靴は昔から軍の正式のものを用いず、彼好みのものを用いた。膝をすっぽり覆うほどの大きなもので、どこか革具足を連想させるような重いものであった。
その長靴でこの白砂の上を踏むと、おもいがけぬほどに大きな音がした。しかし希典はその音を気にするどころではなかった。

その靴の音を御寝所で帝はききながら、
「乃木が来たな」
と、女官に向かってつぶやいた。

やがて現れたのは、帝の予感どおり希典であった。

来た、と帝は夜具の中でつぶやいた。
当の希典は鞠窮如 (キッキュウジョ) としてすすみ、次室から機嫌を奉伺した。帝は女官をして病状を告げせしめた。
希典はその御病状が思ったより軽いのに安堵し、安堵した旨を述べ、型どおりの見舞いを申しあげた後、退出しようとした。女官が戸口まで送ってくれた。その女官が
「お上は」
と、希典にささやいた。
「閣下が参られたことをお足音でお聴きわけでございましたよ」
希典は仰天し、いそいでその長靴を脱ぎ、両手に抱え、足音を盗みつつもと来た内庭の白砂の上を横切って行った。
その様子を女官は御寝所にもどるなり帝に告げた。帝ははじけるほどに笑われ、
「道理で帰りは足音がなかった」
といわれた。
帝はこういう場合の希典がもっとも好きであった。ひたむきに誠実であるがために当人が大まじめであってもどこか瓢軽たおかしみが出てしまうという、そういう希典のおかしみは帝にだけわかるおかしみであった。


■明治天皇の死去
七月十九日、希典は単独で沼津へ行くびく出発し、横須賀駅に入った。
軍港の町であり、当然ながらプラットホームには海軍士官が多かったが、その誰もが通常礼服を着用しているのが異様であった。式日でもなく、しかもこの日は日曜日であり、士官たちがこのようにおおぜい駅にいる事自体が普通でなかった。

(何かあったのか)

と、希典は思った。

希典は過去のどの戦場でも大事な切所にさしかかると、その場に居合わさなかったり、遅れたり、他の所へ駈け去っていたりして、どこか失策の多い運の男であった。
この時もそれに似ていた。

この日の朝、日本中に新聞号外がまかれ、帝が重態におちいられたことが報ぜられた。
この発表によると、帝は昨十九日午後から尿毒症の徴候いちじるしく、すでに精神恍惚の状態にあり、今朝になってその病状はさらに悪化しているという。

日本中で、いわば希典一人がそれを知らなかった。

希典の東京の家では、静子がこの号外に接して狼狽したが、しかし希典がどこに泊まっているかわからなかった。
いつもなら希典は出先を言い残して行くのが習慣であったが、この日に限っては泊まる場所さえ告げていなかった。

しかし希典は駅前の海軍士官たちの服装があまりに奇妙すぎるため、念のために近づき、彼の特徴の一つである村夫子 (ソンプウシ) のような物腰と慇懃さで、「今日は、何かあるのですか」と聞いた。

彼は自分たちに接近してきたこの陸軍の将官が高名な乃木希典であることを知っていた。
他の士官たちも、希典の問いが不審であったらしく、いっせいに希典のほうに目を向けた。
やがて問われた士官が、
「閣下は、本当にご存知ないのでございますか」
と、念を押した。

彼らは希典が、いま危篤の帝にとってどういう人物であるかも知っていた。
まさかと思ったが、しかしその事実を告げた。

・・・希典の顔は誰の目にもわかるほどに青ざめた。

停止した機械のように希典はしばらく無表情でいたが、やがてゆるゆると動きはじめた。
希典は沼津行きの切符を捨てねばならなかった。東京行きの切符に買い換えた。ほどなく車中の人になった。
空いた席に腰をかけたとき、希典は醜いほどの猫背になり、顔を伏せ、動かなくなった。

---- 帝にもしものことがあれば自分は生きていない。

彼はかって帝が自分より先に死ぬことを思ったことがなく、この案を以前から用意していたわけではなかった。しかし今となって思うと、そのことは以前から一途に考えつづけていたようでもあり、ひょっとすると遠い昔からそれをそう思いつづけることによって自分の何かを支えつづけてきたようにも思われた。
いずれにせよ、この場で自決、殉死ということがとっさの決断としてきらめいたことは確かであった。


この日、希典は夕刻から参内し、深夜になっても退出せず、控え室で頭を垂れていた。
すでにこの時刻で控え室にいるのは希典だけであった。

この日の深夜、明治帝の「死亡」が告げられた。

藤波は控え室へ行き、乃木に伝えた。
希典は驚いて立ち上がり、藤波のあとに従おうとして何事が起こったのかをあらためて聞いた。
藤波はそれを告げた。かつ手招きし、目顔で自分についてくるように、と再び言った。

希典は恐惶しつつ従った。希典に与えられた秘密の光栄は、臨終直後の帝に最後の別れをすることが出来たことであったであろう。

希典は侍従たちの黙認のうちに御病室に入り、その寝台の数歩の所まで進んだが、しかしそれ以上は足が進まず、停止した。長い佇立 (チョリツ) のあと、藤波に注意され、この部屋から去れねばならなかった。

希典は通夜のつもりだったのであろう、控え室で、そのままの姿勢で端坐しつづけた。天が白みはじめた時刻、誰かが、
----- 年号は、大正です。
と囁いているのが聞えた。希典が愕然としたように顔をあげたのが、人々の目に多少目立った。
明治が四十五年も続いたために、希典は年号が変わるという知識が、実感として遠くなっていた。

「いつから、大正ですか」

と、希典は、そこにいた宮内省役人らしい男に顔をむけ、低い声で聞いた。
男の顔は、不眠のために青ざめ、目ばかりが場所柄もなく鋭くなっていた。男はこの不意の質問に戸惑ったようであった。

「いつから、と申しましても・・・・・」

と、不得要領につぶやいた。決まっていることではないか、と言いたいようであった。
帝が崩御の時間である七月三十日午前零時四十三分からであった。男はそういった。

希典はうなずき、
「すると、いまはもう大正ですね」
と、言った。

その大正元年の第一日がまだ明けきらぬ刻限、希典は宮中を退出し、待たせてあった俥に乗り、帰宅した。 彼は自邸に長くは居られなかった。すぐに衣服をあらためて参内しなければならなかった。その支度が出来るまでの間、彼はふと思い立ち、前夜来の軍服のまま玄関から降り、門へ出た。すでにどの家にも国旗が出ていた。

彼は自家の門柱を仰ぎ、そこに掲げられている 「乃木希典」 の表札をはずした。この動作があまりにもさり気なかったために、家の者の誰もが気づかなかった。

この日から彼にとって新しい行動が、一つだけはじまった。書類を整理することであった。
「なぜそのように」
と、静子が聞いたが 「諒闇中は、何もすることもない。幸い、整理をしておく」 と答えた。
静子はこの言葉を聞いてどういう想像もめぐらさなかったようであった。ただ、彼は二階自室に内側から鍵をかけ、静子にも入ることを許さなかった。この作業は、ほとんど一ト月以上続いた。


■前兆
九月になり、乃木は家人や親類の者と雑談をしていた。

この時夫人が
「跡目のことでございますけど」
と、さり気なく言い出した。

夫人にすれば二児が死んでいる以上、家督のことを明瞭にしておかなければならないということを、この場の話題にしておきたかった。

「乃木家の跡目のことか」
希典はいった。

夫人静子は、
「天子様でさえ御定命 (ゴジョウミョウ) だけはなんともなしえませぬ。もしものことがあれば、わたくしが難渋します」
といった。

希典はふたたび沈黙した。
“自分の決意を、静子はまだ気づいていないのか”
と、希典は思ったであろう。

このことが彼を迷わせ、しばらく返事をおさえた。
やがて、希典は口を開いた。

「べつに、困りはすまい」

と、問題を別のものにわざと食い違わせた。
こまる、というのは伯爵家の跡目ではなく彼女があとでいった彼女の老後のことであった。なるほど女ひとりを養うという程度なら、希典は十分以上の遺産を残すことになるであろう。が、静子は、いいえそのことではございませぬ、と、すぐ訂正し、さらに言おうとした。希典は話題を打ち切るためにことさらに笑いだした。


「何も困ることはないではないか。もし困ると思うなら、おまえもわしと一緒に死ねばよかろう」


・・・希典はわざと冗談めかしていったために、そばに居た人々はこのことを当然会話の上での遊びだと思った。
希典は幾年か先に病死する。そのときはおまえもどうだ、一緒に、というのは仲のいい老夫婦なら一度は言い交わす冗談であったであろう。

が、静子はこの時初めて微笑を消し、真顔になった。

その一点につき、多少の不審を今まで感じてはいた。希典が自室に引きこもって書類整理をしている様子が、日が経つにつれ、ただ事でないようにも思われてきたのである。
彼女は先日、自分の実姉の馬場サダ子の家を訪問した時も、
----- ちかごろ、希典の様子がどうも変なのです。
と、なにかの話のついでにいった。気になってはいたが、ごく軽い言葉調子で言った。まさか静子にも、希典が殉死の企図を秘めていようとは思わなかった。
崩御を痛んでの希典の日常がひどく陰鬱なものになっている、ということをそのような言葉でいったのであろう。
しかしいま、話題が死の話であるだけに、静子は聞き逃すことが出来なかった。ふと、この人も死ぬのではないか、と思った。


静子はどの宗教にもかかわりが薄かったが、霊魂や超自然の意思というものが実在していることを信じていた。
長子勝典が戦死した時も彼女は予感し、勝典がいま二階で本を読んでいるのではないかと人にも言い、自分もそのことを不審に思い、その後そのことが気持ちを重くした。はたしてその同日同時刻に勝典は南山の野戦病院で戦傷死したことがわかり、この予感が的中した。

そういう静子が、いま死についてふと語っている希典に対し、他の人にはない鋭敏さでそれを受け取った。
希典は死ぬのではないか、と、ありありと思った。生者もまた自分の意志以外の意思で、ふと自分の終焉を予言することがあるという。そのことを思った。
希典は病死するのではないか。そう思ったとき、静子はこの不吉な予感を急いで祓わねばならぬと思った。
彼女は思い切って明るい声を出した。

「いやでございますよ」

大声で言った。いやとは一緒に死ぬことが、である。さらにすぐ言った。

「わたくしはこれからせいぜい長生きして、芝居を見たり、美味しいものを食べたりして、楽しく生きたいと思っているのでございますもの」

希典は、黙った。受け取りようによっては希典への抗議とも感じ取れるであろう。

結婚後十八年のあいだ気むずかしい姑に仕え、その間信じ難いほどの軋轢もあり、しかしながら乃木家の体面の手前、それを忍び、ようやく三十八歳の時姑の死によってそのことから解放された。
しかしそのころには勝典が軍人の学校に入ることを嫌がり、それを強制する夫との間に立って難渋した。彼女自身も勝典を軍人にすることを好まなかった。しかし勝典も彼女もついに希典の意志に従った。
保典も自分は軍人に向かないと常々言っていた。それも父の意志によって軍人になった。
その二人が、そろって満州の戦場で死んだ。彼らが揃って仏間に入ってしまった今日、二人の亡児が必ずしも好んで軍人になったわけではなかったことを思い、そのことを思えば思うほど彼女の傷みは日の去ると共にいっそう深まるようであった。
乃木家の人になって三十四年、一体どれほどいいことがあったであろう。しかもこの上、陰鬱なことを自分の将来において予想したくはなかった。

彼女は話題を軽くするため
「芝居」 と「おいしいもの」 という言葉を持ち出した。

ほんのしばらくの沈黙のあと、希典は希典なりに静子の言葉の意味の一切がわかったらしい。
何も言わず、爆けるように笑いだした。
「そのとおりだ」
希典は短く言い、上機嫌で立ち上がった。
しかしながらこの夫の顔色は相変わらず悪かった。

顔色については、宮中などで人がその悪さに驚いて指摘すると、つねに、
----- ちかごろ、痔の様子がよくないので。
と、彼はきまってそのように答えた。

やがて彼が背を見せ、その巣のようにしている二階へ戻って行く姿は、どう見ても齢以上の老人の印象であった。
希典はこの時六十四歳になっていた。静子は五十四歳である。


■死の前前日
九月十一日は、彼の死からさかのぼって前前日であった。この日午前六時、彼は赤坂の自宅を出て皇居にむかった。馬を用いず、わざわざ俥を用い、膝の上に風呂敷包みを置いていた。厳密には膝の上でなく、膝から三寸ばかり浮かせ、両掌に載せていた。その様子から察して、よほど大事な品物であるとみられた。 静子は、別に不審を抱かなかった。朝の参内はかれのとって恒例のことなのである。このころ彼の日課は朝夕に参内して先帝の殯宮 (ヒンキュウ) を拝し、しかる後二日に一度、彼にとって生徒である皇孫殿下に拝謁した。現実には皇孫と呼ばれるべきではなく、すでに帝は没し新帝の代になっている以上、新帝を中心にした呼称がふさわしいであろう。皇太子と呼ぶべきであった。しかしながら希典はこの裕仁親王をあくまでも皇孫殿下と呼びつづけた。親王はすでに十二歳になっていた。

希典はこの日の前日、退出する時、御帳簿に細字をもって、 「明朝かならず拝謁を賜りたい」 という旨のことを記入した。そのことは無論かなえられた。

このためこの日、皇孫殿下の扈従者 (コジュウシャ) たち、波多野太夫、村木武官長、桑野主事をはじめお付女官たちは早朝から勤務に就き、希典を待っていた。

----- あらたまって拝謁を乞うとは、何事だろう。
という疑念が誰の脳裡にもわだかまっていたが、しかし誰もそのことについては話題にしなかった。

その朝、希典は家を早く出すぎたようであった。御門の見える辺りでそれに気づき、俥を捨て、徒歩をもって広場を横切り、御門に入ってからしばらく時間を消すために佇立した。

近くの松を見上げ、遠くの松を眺めた。どこか詩でも作りたげな風景であったが、しかし詩のことは考えていなかった。漢詩を作るのはそれなりの集中と根気が要る作業であり、希典はここ数年ついぞ作っていない。詩を作る体力がなくなっていた。その代わり、和歌を作るようになった。しかし希典の発想、情感は和歌という形式や調べに向かないらしく、あまり上手くなかった。

何事にも好みが強烈であり、美醜で物事を決めたがるこの性癖の持ち主は、平仮名が嫌いであった。男子は片仮名を使うべし、あれは武骨でいい、と人にも言ったりしたが、和歌というものの発想は平仮名文字の感触と無縁でない以上、彼に適わなかったのであろう。

しかし漢詩を作らなくなってから、和歌を詠むことに熱心になった。ひとに添削を乞うたりもした。
彼はすでに辞世のためのものを用意していたが、その辞世は彼が得意とした漢詩でなく和歌であった。

「うつし世を 神去りましし 大君の みあと慕ひて をろがみまつる」 というものであり、しかし日が経つにつれてその下の句が気に入らなくなり、常住心にかかっていた。
ところが昨夜、ふと想を得、気持ちが落ち着いた。 「をろがみまつる」 をやめ、 「われはゆくなり」 、という方が調べもととのい、希典の気持ちにふさわしく思われた。


■天皇家の子孫達
九月十一日、希典は参内した。午前七時である。希典は、立ったまま待った。
やがて明治帝の子孫である皇太子裕仁親王、淳宮、光宮が現れ、三人一列に横にならばれた。
波多野太夫、村木武官長は別室に下がり、御教育掛の土屋子爵と女官二人が部屋に残った。

「まことに恐れ入りますが」

と、希典は御教育掛に言った。お人払いが願わしゅうございます。というのである。このことは異例であり、恩教育掛土屋子爵はちょっと戸惑ったが、しかしすぐに決断し、みなに目配せをした。一同、廊下へ出た。

----- そのお障子を。

とまで希典は要求した。部屋と廊下との間に厚い唐紙障子がある。それを締めてもらいたいと言うのである。女官はおだやかに一礼し、それを締めた。

このため、部屋は三人の皇子と希典だけになった。
希典は、卓子 (テーブル) へ進み、その上に風呂敷包みをのせ、それを解き、中のものを取り出し、それをちょっと頂き、すぐ卓上にのせた。書物であった。希典はその書物を三皇子にむかって広げた。

「この書物は、 『中朝事実』 と申しまする」
といった。この書は希典の手で造本したものであり、さらに彼自身の手で所々に朱註を入れてあった。

「むかし、山鹿素行先生と申される人が」
と、この書物の由来と著者についての概要だけで五十分以上の時間を要した。

さらに彼らが気づいた時には、希典はこの書物の所々を読み上げ、その内容について講義をし始めているところであった。
漢文と漢語を交えての話は十二歳の兄宮でも無理であったであろう。まして二人の幼童にとってはこの老人が何を喋っているのか、少しもわからなかった。

二人の幼童は、それでもその後三十分ばかり立っていたが、遂にたまりかね、先ず淳宮が駈けだした。光宮がその後を追った。彼らは重い唐紙障子を開け、廊下へ飛び出した。

このため、廊下で控えている人々の目に、中の様子がよく見えた。
----- 何事が行われているのであろう。
と、誰しもが息を詰めたほどにそれはただ事でない風景であった。


希典の半顔が濡れていた。顔を真っ直ぐにあげたまま涙がとどめもなくくだっており、しかも声は歇むことがなかった。


裕仁親王はすでに十二歳であるだけにこの場から逃げ出すことはせず、躾られたとおりの姿勢で立ちつづけていた。後の昭和天皇である。

希典は「中朝事実」を演述しつつ、帝王としての心掛けを裕仁親王に説いていた。

希典には危機感があり、それはこの国家の行く末のことであった。
日露役後、瀰漫 (ビマン) しはじめた新しい文明と思潮の中でこの国は崩壊し去るのではないかということであり、このことは人にも語っていた。

今死のうとするとき、その憂心は誰に語り残すべきであろう。彼は既に軍部から慇懃な形で阻害されていた。学習院でも必ずしも生徒の間で彼は魅力ある教育者としては映っておらず、著述して世に問うにも、彼は世を納得させるだけの論理の力を持っていなかった。

彼に残された警世の手段は、死であった。彼は自分のおよそ中世的な殉死という死がどのような警世的効果をもつかを、陽明学の伝統的発想を身につけているだけにこのことのみは十分に算測することが出来た。

しかし彼の今の涕涙はそれではなかった。すでに老残であることを知っているからは、誰に相手にされなくなってもこの眼前にいる少年にだけは言い残したかった。
この少年は将来数十年後にはこの国の帝になるはずであり、その点で他の者とは違っていた。さらにこの少年だけは他の者と違い、自分の言うことを素直に聞いてくれる少年であり、現に今も聴いてくれていた。
この少年の律義さを希典は常々傾仰していたが、なんという美質であろう。少年はじっと立ちつづけていた。もっとも少年はその美質をもって立姿の姿勢をとっているのであり、希典の演述を理解しているかどうかについては、じつのところ希典にとってもよくわからなかったであろう。

「この 『中朝事実』 は」

と、希典は卓上のものを両掌でさし示しつつ、
あるいは殿下にとって訓読みがまだ無理かと存じますルガ、ゆくゆく御成人あそばされ、文字に明るくあなり遊ばしたあかつきには必ずお読み下さいますよう、このように手写し、献上つかまつる次第でござりまする。」と希典は言った。
希典の講述は終った。

このとき皇儲の少年は、不審げに首をかしげた。

「院長閣下は」

といった。彼は乃木と呼ばずこのような敬語をつけて呼ぶようにその祖父の帝の指示で教えられていた。

「あなたは、どこかへ、行ってしまうのか」

少年はそう質問せざるを得ないほど、希典の様子に異様なものを感じたのであろう。この声はひどく甲高かったために、廊下にいる女官達の耳にまではっきり聞えた。

「いいえ」

と、それをあわてて否定した希典の声も、廊下まで洩れた。

「乃木はどこにも参りませぬ。ただ英国のコンノート殿下の接伴員を仰せ付けられておりますので、このところしばらくの間・・・・・」

とまで言い、あとは言葉を消した。しばらくの間乃木は参殿できませぬ。という言葉を省いたのであろう。

希典は退出した。


■遺言
翌十二日。彼がその死を予定している前日だ。 この日も彼はその日課である参内のために出かけた。
希典が出かけた後、静子はひどく不安になった。この前夜、彼女は夢見が悪く、目がさめるとうなされている自分に気づいた。夢というのはこの野木家に弔問客がひきもきらずに来ているというもので、ただ事ではなかった。彼女はいたまれなくなり、ついに家の者にその旨を打ち明け、易占のもとに走らせた。
易占家はその夢を卜し、これは容易ならざる事でございますが、ご主人の身の上に危険が迫っております、それもここ二、三日のうちであり、十分にご注意なさらねばなりませぬ、という。
静子は、この種のことを信じた。当然、この卜占を信じた。彼女が希典の挙動について自殺の懸念からそれを見はじめたのは、希典の死ぬこの前日からであった。
この日希典は、朝は参内し、昼は殯宮に礼拝し、夜は殯宮に奉侍した。殯宮奉侍は、普通にいう通夜のことであった。
その殯宮奉侍から退出し、希典が赤坂の自宅に帰ったのは、夜の十一時すぎである。


この夜、希典は遺言を書き始めた。
内容は十カ条にわけ、条々にいちいち番号を付け、冒頭には 「遺言条々」 と書いた。

自殺の理由は、
「明治十年の役に軍旗を失ひ、その後死処を得たく心がけ候もその機を得ず、皇恩の厚きに浴し、今日まで過分のご優遇をかうむり、おひおひ老衰、もはやお役に立ち候ときも余日無く候をりから、このたびの御大変、なんともおそれいり候次第。ここに覚悟相さだめ候ことに候」
で終っている。

それ以外に、理由は書かれていない。要するに二十九歳の時軍旗を薩軍に奪われたことについての自責のみが唯一に理由になっており、この一文があるがために彼の殉死は内外を驚倒させた。信じられぬほどの責任感の強さであり、この一文は軍人の責任という徳目の好例として米国の陸軍士官学校の教科書にも採録され、今も使われているという。

希典自身も自分の死の理由をそのように信じた。というより、詩人としての希典は、希典は常にそうだが自分を詩中の人物として置く時、このような自分であることが最もその詩心を昂揚させるのであろう。

彼は近代文学の徒ではないために自分の心理の分析を必要とせず、ただいっぺんの詩情と詩の一句で自分を整理することのできる人であった。
彼の少年期にはそのような人物が無数にいた。しかしその時代が維新をもって終わり、その後国家と社会が近代化されて四十五年を経たが、彼のみはその前時代人の美的精神を頑なに守り、化石のように存在させつづけた。


■切腹
自決当日。大葬の日であり、この日は夫妻そろって参内せねばならない。静子はこの日の未明、二階の自室で起きた時、廊下を隔てた希典の居室ではすでに物音がしていた。

この早朝、希典は入浴した。いつもならば希典は入浴の時書生を呼び、書生に背を流させた。しかしこの時はいつになく静子を呼び、彼女に背を流させた。静子はそのあと自分のための湯をつかい、やがて彼女自身の居間に入ってあの煩瑣な衣装をつけはじめた。


おわると、ちょうど参内のために呼んであった自動車が来た。夫妻はそれに乗るべく、玄関を出た。門を出るまでの間、希典は無言で静子の襟に手をのばし、そこについていた糸くずをとってやった。二人は車に乗った。

午前九時に殯宮に参拝し、静子はすぐに帰宅した希典もほどなく帰った。
正午は親類の者もまじえ、昼食をとった。食事は、自家で打った蕎麦であった。希典はここ数年、ほとんど蕎麦を主食にしていた。客に 「ご馳走する」 と予告して招待した時も、出したのは蕎麦だけであり、客はそのために驚いた。希典はこの蕎麦という食い物にさえ、彼自身のストイシズムとそれへの感動と他人への訓戒をこもらせていた。

彼の死後、彼の崇敬者が激増するが、その殆どがこの一点に感動した。伯爵といえば旧幕時代の大名を連想する時代であり、むしろ庶民にとってはそれ以上の華麗な存在であった。しの伯爵が、庶民も避けるような粗食をしているということについての感動は、のちの時代の者には想像のつきがたいものであろう、彼ら崇敬者たちはこれを乃木式食事と呼んだ。

この食事中、静子が、
「桃山の御陵までお供なさるのでございましょうね」
と言った。

静子がこのことを質問したのは、はっきりと希典の意中を探る目的のためであった。希典があるいはこの期に自殺するのではないかということは、静子の想像においては十のうち七つ八つまで疑い難いものになりはじめていた。自殺するとなればそれはいつなのか。あるいは存外、自殺などは自分の思い過ごしに過ぎないのではないか、などということを、その質問の中に籠めた。
ところが希典の不思議さは、この期になってもこの企てを韜晦しようとしないことであった。彼は言った。

「今日参内した時、またしてもみながわしを見て、どうも顔色がすぐれぬ、どこか悪いのではないか、というのだが、それほどすぐれぬなら桃山まではとてもお供はおぼつかない。このことだけは残念ながら思いとどまることにした」

「いらっしゃらぬわかでございますね」

と、静子は念を押した。ひとの言葉に念を押す習慣は静子にはなかったのだが、この時だけは今一度反応を確かめたかった。

「行かぬ」

希典は顔をあげてそう言い、この場合には不必要なほどに強い視線で静子を見つめた。
まだお前は覚らぬのかと言っているようであり、念を押すことをたしなめたいるだけのようでもあった。

静子は迷った。
「では、明日はどういうご予定でございます」
希典はこの質問には答えなかった。
明日はすでに彼はこの世に存在していない。

・・・・

夕刻になった。大葬の葬列が宮城を出発するのは夜の八時である。希典はそれ以前の午後六時には参内しなけれなならない。
静子は別な意図もあって二階にあがり、希典の部屋に入った。

希典は軍服のままで端坐し、かたわらに軍刀を横たえている。
東側に、窓がある。その窓の下に小机が置かれ、小机は白布で覆われており、そこに先帝の写真が置かれ、榊、神酒徳利一対が供えられていることは、普段のままであった。しかしその小机には別なものが置かれていた。書類数点、それに封筒一点であり、封筒に遺言状と墨書きされているのを見たとき、静子は全てを察せざるを得なかった。

が、静子は自分でも意外なほど取り乱さなかった。覚悟というより、この情景は彼女の想像の中で何度か明滅してきたろころのものであったし、それが適中したというよりその想像したものが今復習されているといったような実感だったであろう。

「察しのとおりだ」
と、希典は言った。

「自分の心事についてはすべてわかってくれていること思う。自分は死ぬ。死後のことは遺言状および遺書にある。ところでいま、何時になる」

「午後八時十五前でどざいます」

「とすれば」
希典は言った。

「もうすぐ、そう午後八時に御霊柩 (ゴレイキュウ) が宮城を御出ましになる。号砲が鳴る。その時に自分は自決する」

あと、十五分しかない。

これ以後のこの場の情景については、想像をめぐらせる以外にのぞきようがない。
静子はこの異様なほどの冷静さは、自分も生きていないというところから出ているのであろう。
彼女は言ったにちがいない、自分も生きていない、いずれ後を追って死ぬ、と。

希典は静子を道連れにするつもりはなかった。そのことは昨夜書いた遺言状でも明らかであろう。遺言状の宛名の中に静子を含めているし、その内容には静子の余生の住居のことまで触れておいた。

しかし静子の後追いを聞いて事態は変わった。

希典にすればいかに妻であるとはいえ、その生命のことまでは強制し難かったに違いない。が、いまそのことが一変した。静子はあとで死ぬと言う。

彼は先々月、選定の死と共に死を決意したあとも静子のことが気がかりであった。二児を非業に喪い、さらに夫を非業に喪うというほどの打撃を静子にあたえたくなかったし、その老後の寂寥を思うと・・・。

「それならいっそ、今わしと共に死ねばどうか」

が、このことには静子は驚いた。あとわずか十五分で死ねということであった。

婦人の身のまわりには様々なことがある。
たとえば家の中の鍵の隠し場所なども人々に言遺しておかねばならず、身辺のもの物品書類なども焼くべきものは焼かねばならぬであろう。

静子は当惑した。当惑のあまり声が、階下にまで聞えた。

----- 今夜だけは。

という静子の短い叫びが階上からふってきて、階下にいた彼女の次姉馬場サダ子らの息を詰めさせた。
そのあとすぐ癇の籠った声が二、三聞えたが意味は聞き取れず、すぐ静かになった。

そのあと数分経過した。階下の人々は沈黙をつづけた。
階上でふたたび気配が聞えた。重い石を畳の上に落としたような、そういう響きであった。
馬場サダ子は、人の死を直感した。サダ子と下婢ひとりが階段をのぼった。
鍵穴からサダ子が叫び、希典の名を呼び、静子に罪があるなら自分が幾重にも詫びます、と泣きつつ言った。
血のにおいだ廊下にまで流れていた。やがて希典の声が室内から聞え、意味はさだかではなかったが、御免なさい、と言ったようであった。


警視庁警察医による死体検案始末書から推察すれば、静子はその死のために短刀を用い、最初三度その胸を刺したようであった。
一度は胸骨に達し、それが遮った。二度目は右肺にまで刺入したが、これでも死にきれなかったのであろう、三度目の右肋骨弓付近の傷はすでに力が尽きはじめていたのかよほど浅かった。希典が手伝わざるを得なかったであろう。
状況を想像すれば希典は畳の上に、短刀をコブシでもって逆に植え、それへ静子の体をかぶせ、切先を左胸部にあてて力をくわえた。これが致命傷になった。刃は心臓右室をつらぬき、しかも背の骨にあたって短刀の切先が虧けていた。

希典は静子の姿をつくろい、そのあと軍服のボタンをはずし、腹をくつろげた。軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆に擬し、やがて左腹に突き立て、臍もやや上方を経て右へひきまさし、いったんその刃を抜き、第一創と交叉するよう十字に切りさげ、さらにそれを右上方へはねあげた。
作法でいう十文字腹であった。しかしこれのみでは死ねず、本来ならば絶命のために介錯が必要であった。希典はそれを独力でやらねばならなかった。

彼は軍服のボタンをことごとくかけて服装をつくろったあと、軍刀のつかを畳の上にあて、刃は両手でもってささえ、上体を倒すことによって首の咽喉をつらぬき、左頚動脈と器官を切断することによってその死を一瞬で完結させている。

希典とその妻の殉死の報は、それから一時間後には、大葬拝観のために堵列している群集の間に広がったらしい。
すぐ世界に広がった。希典はすでに旅順要塞の攻略者としてこの当時の日本人としては他国に対する知名度が最も高く、その死は文明世界の殆どの国の新聞に掲載された。
その論評のことごとくが日本の貴族の演じた中世的な死の様式に驚きつつも、その殆どが激しく賞讃した。
すでにヨーロッパにおいてはどの国でも王室の尊厳と貴族の権威が失われつつあり、その典雅で剛健な秩序を哀惜する者はこの希典の死を世界的な感覚でとらえ、奇蹟の現象として感動した。
彼の思想の過去の系譜のなかにあるこの稿の冒頭の人々が、すべてその行動よりもその劇的な死によってその同時代人や後世に思想的衝撃をあたえたかのように彼の死もその劇的な時宜を得た。

生前の希典は、最後まで不遇感を持ちつづけていたらしい。彼はよく雑談の中で電車の座席の話をした。

電車に乗っていると、すわろうと思って、そのつもりで鵜の目鷹の目で座席を狙って入ってくる。ところがそういう者はすわれないで、ふらりと入ってきた者が席を取ってしまう。これが世の中の運不運というものだ。
希典自身、自分の一生を暗い不遇なものとして感じていたらしいが、これはどうであろう。


引用元:http://www.marute.co.jp/~hiroaki/tora-dokusyo/100/p-01.htm

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