最後の日本兵


 昭和47年1月24、グアム島のジャングルの中で現地の漁民2人によって日本兵が発見された。名古屋市中川区出身の横井庄一伍長(56)で、満州から昭和18年にグアムへ赴任、敗戦はアメリカ軍のビラで知ったものの「非国民扱いされる」と恐ろしくて出て行けず、仲間2人とジャングルで暮していたという。その2人の仲間は8年前に死んでいた。その後はタロフォフォ村の滝の近くの洞窟に住み、木の実、川えび、魚、野生の豚などを捕まえて食べ、衣服は自分で作っていた。

 グアム島では昭和35年5月に新潟県北蒲原郡黒川村出身の皆川文蔵一等兵(39)と山梨県西八代郡下部町出身の伊藤正軍曹(39)という日本兵が発見されている。皆川は5月21にグアム島アガナ南16kmの密林で住民2人が蟹を採ろうと罠を仕掛けようとしていた際に発見されて格闘の末に取り押さえられたもので、伊藤は5月23に米軍の捜索隊によって見つけられていた。2人は5月28午後2時20分に米軍機で米軍立川基地に帰国している。出征以来19年ぶりの日本だったが、伊藤は空港まで出迎えた母と一緒に八王子発の列車で午後7時36分に甲府に到着して1500人の出迎えを受け、身延線で久那土で降りて500人の出迎えを受けた。皆川は文京区の旅館に1泊したが旅館のおかずが多くて食欲がわかず、「一生を棒に振ってしまった」とグアムでの逃亡生活を悔いる発言を繰り返した。皆川は5月29午後3時12分に急行佐渡で新潟に到着、新発田街道を車で黒川村に向かったが雨だった。2人ともグアム島にもう日本兵の生存者はいないと思うと語っていた。

 ところが、いたのである。その横井は昭和19年9月30に戦死した事になっていた。皆川は横井とグアムの兵隊時代に面識があり、「あの名古屋の洋服屋の横井さんか」と驚きを隠せない様子であった。

emsp;「塩が欲しい、塩をくれ」。殺されないとわかって安心した横井の発した第一声はこれであった。横井は地元記者らにグアムでの暮らしは気に入っているなどと答え、日本へ帰ったら戦友を弔いたいとした。またテレビや原爆などは詳しくは知らなかった。最後に仲間以外の日本人の声を聞いたのが敗戦の時で、「勘太郎月夜唄」を山の上で隊長らが歌い、ジャングルに潜んでいた日本兵に出てくるように呼びかけていたのだという。2人の仲間の名前は中畠悟海軍軍需部工長と志知幹夫衛生伍長である事もわかった。中畠の母は健在で「悟は8年前に死んだ?信じられません」と虚脱した様子であったという。

 メモリアル病院の6階に収容された横井は「足が痛い」としきりに訴える。靴のない生活に慣れて靴ずれをしてしまうのである。昭和47年1月26日朝、皆川と伊藤が駆けつけた。ドアの隙間から皆川が顔を覗かせると、横井は「あーっ」と言って立ち上がり皆川に近づく。「横井さん、ああしばらく」、あとはお互いに泣くばかりであった。「2人がこのとおり生きているから自分も夢ではない」と横井は語ったという。

 また横井は昭和天皇の訪欧の写真グラフを渡され、「今でもこんなにご無事なんですか」と驚いた様子であったという。「天皇陛下を信じて自分が生き延びた事を、ぜひ伝えて欲しい」と昭和天皇に面会が許されるなら会いたいとした。朝食のお粥に「28年ぶりにおいしいものを食べた」と横井は語り、さらに日本軍が再びグアムに上陸するに違いないと信じて投降しなかったと語り周囲を驚かせた。両親の死を初めて知って涙に暮れ、ベッドの上でも壁によりかかるように就寝、帰国を前に「戦友が俺も連れて行ってくれと夢に出てくる」と訴え、新聞記者らに「あなたたちは本当の日本人なのか。アメリカ人と同じではないか」と問いかける、環境の激変は横井の精神状態を不安定にしていた。

 2月2午後2時15分、横井は羽田空港に到着、その後の記者会見で「恥ずかしながら、生きながらえて帰ってまいりました」という有名な台詞を言った。横井は飛行機から見た富士山で初めて日本へ帰った実感が湧いたとし、グアムを出てほっとしたとしている。さらに帰国後は戦友の家族らにグアムでの戦闘の様子などを伝えて歩きたいとの希望も漏らしている。一緒に帰国した中畠と志知の骨は遺族に引き取られて靖国神社に帰国報告が行われた。2月3日朝、新宿区戸山の国立第一病院から東京の空を眺めた横井の感想は「空はきたないなあ」だった。この頃、東京は公害問題真っ盛り、スモッグが凄かったのである。このは札幌オリンピックの開会式だった。昭和天皇は「長い間どんなに苦労したことだろう」と語ったが、それを関係者から伝え聞いた横井は無反応。自分が掲載されている新聞などを熱心に読みふけっていたという。

 新聞などでは判を押したように「生きて虜囚の辱を受けず」の戦陣訓の精神に横井は縛られていたかのような報道だったが、自らも陸軍にいた司馬遼太郎は戦陣訓について「あれはそれほどでもない」と理解できない出来事に明確な原因と結果を求めたがるマスコミの姿勢を批判している。同じく陸軍にいた村上兵衛は横井が口にする「天皇陛下のために」はシンボルに過ぎず、実際には村人や家族がどう受け取るか郷党に対する気兼ねが横井をジャングルから出させなかったのではないかと推測している。従軍記者の藤井重夫も横井が「天皇陛下」「大和魂」という単語を連発するのは、いずれも後から思いついたもので実際は生への執着が横井をジャングル暮らしに駆り立てたのではないかとしている。

 軍隊経験者は横井の建前と本音の部分をはっきりと見分けていたが、戦争当時、まだ子供であった世代や戦争を知らない世代は横井の言葉を額面通りに受け取って今浦島の横井を珍しがったりしていた。昭和天皇が国民の中に親しみを込めたイメージで見られるようになったのは戦後の全国視察以降の話である。戦前の昭和天皇については「特別な感情を抱きにくかった」「雲の上の人」というイメージであったようで、これは山本夏彦なども証言している。長くジャングル暮らしだった横井の外界への警戒心が「天皇陛下のために」「大和魂が」という発言をさせていたのではないか、それが証拠に横井は記者など外部の人間のいない病室の中では昭和天皇直々のいたわりの言葉を伝えられても無反応で、昭和天皇の掲載された雑誌やテレビなどにも関心を示さなかったという。

 オフィシャルな記者会見などの場での横井の反応とプライベートな病室での横井の反応の落差こそが、戦前の典型的な陸軍一兵卒の素顔だったのではないか。わかりやすく言えば今ならさしずめ「平和のため」と枕詞をつければ大義名分が立つのと同じで、戦前の感覚そのままの横井が「天皇陛下のため」と言うのは決まり文句というか枕詞というか、特別に深刻な意味は持たずにその台詞を使っているのかもしれないのである。

 そして大事なのは横井の言動に色濃く出ているグアムで死んでしまった戦友の家族への後ろめたさといった感情である。「恥ずかしながら」というのは日本国民一般に対してではなくて、間違いなく現地で死んだ戦友の遺族へ向けて語っている台詞である。自分一人だけ生きて帰って来て批判を浴びるかもしれないという思いが、必要以上に横井自身に忠良な帝国軍人を演じさせていたと思えなくもない。考えてもみよう。あなたがもしグループ旅行か何かへ行った先で事故で友人が皆死んで、あなただけ奇跡的に助かって記者会見に臨むとしたら、死んだ友人の家族の眼差しを意識しながらあなたはどのように振る舞うだろうか。「自分だけ助かって申し訳ありません」と言うだろう。横井の「恥ずかしながら」とその台詞はどこが違うだろう。記者会見では死んだ友人の家族の感情を傷つけまいと誠実に一生懸命振る舞おうとするだろう。横井が「天皇陛下のため」と一生懸命に会見で答えたのとどこが違うだろう。

 横井は必要以上に忠良な帝国軍人として世間の目のある前では振る舞わなければならないと自ら思い込んでいたというのは、ボロボロの銃を持ち帰って天皇から預かった銃なのでお返ししたいなどと芝居がかった言動をしたり、帰国して病院へ向かう車の中で「自分は皇居と靖国神社に用がある」と厚生省の役人に何度も言ってみたりという事からもうかがえるのである。世間の目の届かない病室の中では横井は天皇にも無関心だったし、記者会見の時のような大仰な物言いや振る舞いも見られなかったというから、横井が28年間もジャングルに潜伏していたのが軍隊教育の厳しさのためだけとはどうも一概には言い切れないのである。

 10月19日午前6時、フィリピンのルバング島北西のティリックの先の丘陵地帯で現地の農民が稲束を焼いている2人組を発見、通報で駆けつけた警察3人と銃撃戦になり1人が死亡した。10月20、フィリピン政府から日本政府に連絡が入る。死んだ1人というのが日本兵のようだというのである。死者の所持品を調べた結果、死んだのは小塚金七一等兵(51)らしいと判明、戦前の5銭玉なども見つかった。かねてからのルバング島帰りの兵士らの証言から逃げた1人は小野田寛郎少尉(50)であると思われた。戦後の一時期まで小野田らは4人で逃走生活をしていてうち1人が投降、1人はフィリピン軍に撃たれて死んでいたのである。その後、2人の捜索は行われていたが見つからなかったため、昭和34年に既に死んだものとされていたのだった。

 現地の農民らは日本兵の存在をかねてから知っていて、山の上は日本兵の王国だと恐れて近づかないようにしていたという。しかし山で暮らして時折、下界に降りてきて民家を襲う日本兵に悪意は持っていなかったという。むしろ山賊のように見ていた。「島の恐怖ではあった。だが、それは彼らの罪ではない」と以前、日本兵に襲われた現地の労務者男性は語っている。逃走している日本兵の危惧どおり、実際にアメリカ軍による残存日本兵皆殺し作戦は昭和21年2月に実行一歩手前までいっていた。投降の進まない日本兵に業を煮やしたアメリカ軍が島内を絨毯爆撃する計画を立てていたのである。

 小野田は陸軍中野学校を卒業後、昭和20年2月に現地に赴任、昭和21年まで仲間ら47人で投降せずに行動していたが、投降を決めた43人と分かれて小野田ら4人は「山下奉文閣下の命令がない限り動かない」とジャングルに残る事を決めたという。中野学校とはいわゆるスパイ養成機関だったが、小野田の在学していた頃はレンジャー部隊のような訓練を行っていて、「敵が島を占領した時から任務は始まる。国民の期待に応えてくれ」と離島残置諜者として小野田はルバング島に送り込まれていた。なお小塚も小野田も両親が日本に健在であった。小塚の家族は「死んだなんて信じられない」と落胆した様子であった。小野田生存のニュースにアメリカ軍の将校は「小野田が生還したらゲリラ教程の教官を依頼したい」と語っている。

 小野田捜索は難航した。日本側は戦友など高齢者の捜索隊で友好的なフィリピン軍の協力の下に捜索が進められたが、肝心の日本大使館は反応が冷たくマスコミなどの取材も拒否、挙句の果ては取材陣の抗議に大使館の人間は「フィリピン人の言う事を信用するのか」と居丈高に威嚇する始末、現地でのトラブルや軋轢を恐れていたのである。外務省の事なかれ主義は昔からだった。捜索隊や記者団は現地人をガイドに雇ったり、物資調達、宿の確保などでルバング島はゴールドラッシュのようになったが、休日には島民が子供連れで押しかけて踊りや歌を披露したり、ボランティアで捜索に協力する島民も多く、総じて親日的な雰囲気であった。昭和49年3月10、小野田は捜索隊の谷口義美元少佐の投降命令に応じてジャングルから下山した。谷口は小野田の元上官であった。

 小野田は2月20午後6時、自称探検家の24歳の青年とジャングルで遭遇して青年の説得でセルフタイマーの写真に納まっていた。この青年は鈴木紀夫といい世界放浪の旅をしていたが、小野田の話を聞いて現地に飛び、「自分が見つけてみせる」とジャングルに乗り込んでいたのだという。「小野田さんとパンダと雪男を見つけるのが夢」などと鈴木は語っていた。パンダはこの時点からつい数年前まではまだ未知の動物だった。鈴木は日本政府のようなやり方では小野田は発見できないとして、自ら単身で小野田と同じようにジャングル生活を現地ですれば必ず小野田と接触できると友人に秘策を明かしていたという。悪い言い方をすれば鈴木はかなり変人の部類で、良くいえば物事の決まりに捉われない自由人であった。愛唱歌は「蒙古放浪歌」であったという。ジャングル暮らしの小野田が心を開いたのは鈴木のおよそ文明人らしくない感覚が良かったのだと言われた。

 小野田は初め、鈴木をフィリピン人と思って追い払おうと声をかけたが、思いがけず日本語で挙手の礼をとられたので驚いたという。小野田は鈴木に語ったところでは何度も現地に捜索隊が来ていた事はすべて知っており、どこからか入手したトランジスタラジオで情報収集もしていたという。しかし厚生省の投降命令書が「戦争は終わりました」「大変遅くなりましたが聞いて下さい」と口語文だったため逆に警戒を強めていたのだった。小野田は鈴木に再会を約束して別れる。鈴木が日本に持ち帰った小野田生存情報に日本では色めきたった。3月4日夜、鈴木、小野田の兄、小野田のかつての上官の谷口らが現地入りした。3月8午後6時、ビゴ川上流に捜索隊が設置したメールボックスに入れられた鈴木が撮影した小野田の写真、鈴木の手紙、上官だった谷口の投降命令書を小野田は発見、そこに書かれた内容に従って一路、2月20に鈴木と出会った場所へと急ぐ小野田だったが、20kgもの装備を背負っての移動でもあり、メールボックスから合流を約束した地点まで2かかったという。


小野田の戦い

【小野田寛郎の30年戦争】


1.「オレには戦争は終わっていない!」


「おい」と背後から声をかけられ、炊事のために火を起こしていた鈴木紀夫は立ち上がって、振り返った。声をかけた男は銃を構え、夕日を背に近づいてきた。昭和49(1974)年2月20日、フィリピン・ルバング島山中のことである。


「ボク、日本人です。ボク、日本人です」と鈴木青年は繰り返し、ぎこちなく軍隊式の挙手の敬礼を二度した。男が鉄砲を自分に向けていると知って、足がガタガタと震えだした。


「小野田さんですか?」と鈴木青年はうわずった声で聞いた。


「そうだ、小野田だ」「あっ、小野田少尉デアリマスカ」と、急に軍隊調になった。

「長い間、ご苦労様でした。戦争は終わっています。ボクと一緒に日本に帰っていただけませんか」


小野田少尉は、鈴木青年を怒鳴りつけた。「オレには戦争は終わっていない!」





2.戦前の日本人の生の声が聞けるかもしれない


小野田少尉は4日前から、この青年の行動を監視していた。

テントで野営するからには討伐隊か。敵は日本語のできるやつをオトリに送り込んできた、と小野田少尉は警戒心を強めていた。


鈴木青年はポケットからマールボロを出して、小野田少尉にすすめた。米国製タバコとは、ますます怪しい奴だ。


「君はだれの命令を受けて来たのか」と詰問する小野田少尉に、

「いや、単なる旅行者です」と答える。


小野田さん、ボクは戦後生まれなんだけど、いろいろ戦前のことなども好きで、本を読んだり話を聞いたりしているんです。でも、いまの日本と戦前の日本では、人間まで変わってしまっているんですよね。それでボク、小野田さんがこの島に残ってまだ戦争をしているという記事を新聞で読んで、そうだ、そんな人間、それも陸軍の将校さんがいるのなら、一度会って話をしてみたい。いまの日本が失ったものを持っている戦前の日本人の生の声が聞けるかもしれないとね。


おいおい、この男はいったいどうなっているのか、と小野田少尉は思った。わけがわからなかったが、それにしても面白いことをいう日本青年がいるものだと、ちょっぴり親近感を抱いた。






3.「3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」


「オレは民主主義者だよ。いや、自由主義者の方がいいな。だから兵隊になる前は中国で随分勝手気ままに遊んだものだ」


小野田寛郎(ひろお)は昭和14(1939)年、和歌山の中学を卒業すると、貿易商社に就職し、中国の漢口(今の武漢)の支店に務めた。17歳にして英国製の背広を着て、米国車に乗り、夜のダンスホールに入りびたる日々だった。「あいつはホールで中国娘を口説くために中国語を勉強している」などと言われた。


昭和17年5月、満20歳になると、徴兵された。しばらく中国ゲリラ掃討作戦などで弾の下をくぐった後、昭和19(1944)年9月、中国語ができるのを買われて、陸軍のスパイ養成機関・中野学校に送られた。そこでは「たとえ、国賊の汚名を着ても、どんな生き恥を晒してでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」と教わった。


約3ヶ月の特訓の後、フィリピン戦線に送られた。米軍の上陸が間近と予想されており、「小野田見習士官は、ルバン(グ)島へ赴き、同島警備隊の遊撃(ゲリラ)戦を指導せよ」と口頭命令を受けた。小野田少尉は、以後30年間、この命令を守り続ける。


ルバング島は、マニラ湾を塞ぐように位置する南北27キロ、東西10キロの小島である。敵のルソン島攻撃を遅延させるために、ルバン飛行場の滑走路を破壊し、敵が上陸したら、敵機の爆破を図れという命令だった。「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く」と言われた。







4.ゲリラ戦の開始


昭和20年2月、米軍のルバング島上陸が始まった。艦砲射撃と地上攻撃機による爆弾投下の後、戦車4両を先頭にした海兵約1個大隊が上陸を開始。約200名の日本軍は4日間の戦いに敗れ、小野田少尉は数人の兵士を連れてジャングルに逃げ込み、ゲリラ戦に入った。


8月中旬になると、毎日威嚇射撃をしていた米兵の姿が見えなくなった。10月中旬には、住民が「8月15日、戦争は終わった。命は保証する。山を降りてこい」と下手な字のビラを置いて逃げていった。確かに敵のパトロール隊は米兵からフィリピン兵に代わっていたが、彼らは日本兵と見るとしゃにむに発砲してくる。戦争が終わったと信じろという方が無理だった。


昭和20年暮れには、米爆撃機が大量のビラを投下した。

「第14方面軍 山下奉文」名の「降伏命令書」であった。しかし、「投降者ニ対シテハ食物、衛生助ヲ与へ、日本ヘ送ス」と、まるで日本語になっていない。山下将軍の名をかたった米軍の謀略だと判断した。





5.「戦闘」


後に、日本からの捜索隊が来て、新聞を置いていったが、「ねぐら発見」「たき火跡を発見」といった記事を見て、小野田少尉は思わず、噴き出したという。自分たちを「やせ衰え、穴の中で隠れて暮らしている気の毒な日本兵」としかとらえていなかったからである。


小野田少尉らは「戦闘」を続けていた。日本軍が再上陸してくるとすれば、水深が深く山が迫った西海岸だと考え、そこから住民を威嚇して追い払い、向かってくる敵には容赦なく発砲した。


捜索隊が置いていった新聞や、住民から奪ったラジオの日本語短波放送で、祖国の現状は察知していた。日本本土は米軍に占領され、カイライ政権が作られている。しかし、本当の日本政府は満洲のどこかに存在して、戦争を継続している。ベトナム戦争で米軍機が連日、南方に飛んでいくのも、日本軍が猛反抗に出たからだと判断した。


アメリカは民主主義の国だから、戦争が泥沼になれば、世論は反戦に傾く。勝てる戦いではないが、条件講和に持ち込めば良い。小野田少尉の戦いは、その一部であった。


フィリピン警察軍は、約30年の間に93回の討伐を行った。時には約100人を動員して包囲作戦に出て、小野田少尉以下は激しい銃撃戦を展開して、包囲網を突破した。


また、収穫期には住民を威嚇して追い払い、積み上げたモミに火をつける陽動作戦を行った。通報を受けた国家警察軍がすっ飛んでくるが、通報は当然、米軍にも行くだろう。日本の諜報機関は必ずそれをキャッチするはずだ。友軍に、自分たちの存在を知らせる工作であった。


しかし、女性と子どもには危害を加えなかった。戦闘力も敵意もない女子どもは、戦いには無関係だったからだ。後に投降した小野田少尉に、州知事夫人はこう語っている。


島の男たちは30年間、大変怖い思いをした。不幸な事件も起きました。しかし、オノダは決して女性と子どもには危害を加えなかった。彼女たちが子供たちと共に安心して暮らすことができたのは、大変幸せなことでした。





6.こだますら打ち返さざり夏山は


昭和29年5月7日、日本軍再上陸のために占領していた西海岸に、30数名の討伐隊がやってきて、銃撃戦となった。射撃の名手だった島田庄一伍長が眉間を打ち抜かれ、即死した。


昭和47年10月17日には、稲むらに火をかける陽動作戦の最中に、警察軍に襲われ、小塚一等兵が銃撃でやられた。


とうとう一人になってしまった。しかし、「次は自分の番だ」という恐怖心はなぜか湧かなかった。敵に対する憎悪がこみ上げたが、その感情におぼれることを防ぐために、自分の命の年限を決めた。あと10年、60歳で死ぬ。60歳の誕生日、敵レーダー基地に突撃。保存している銃弾すべてを打ち尽くして、死に花を咲かそう、、、。


小塚一等兵「戦死」のニュースは、日本でも衝撃的なニュースとして取り上げられた。ヘリコプターが飛び、「小野田さん、生命は保証されています。いますぐ出てきてください」と呼びかけた。


ジープからは女性の声が流れた。「ヒロちゃんが、私に二つくれたわね」 姉千恵の声である。結婚祝いに贈った真珠の指輪のことだ。長兄や次兄、弟の声も聞こえた。本物に違いないと思った。


小野田少尉は二通りの見方を考えた。一つは米軍の謀略工作だ。「残置諜者」の自分を取り除くために、占領下の日本から肉親まで駆り立ててきたというもの。もう一つは日本の謀略機関が、アメリカを欺くためのトリックとして、捜索隊という口実で、島の飛行場やレーダー基地の情報収集をしている、というもの。アメリカのベトナム戦争での失敗をついて、経済大国にのし上がった日本がフィリピンを自陣営に取り込む目的か。


いずれにせよ、肉親の呼びかけを信じて、うっかり出て行ってはならない、と小野田少尉は判断した。


捜索隊は、「小野田山荘」と看板が掛けられた立派な小屋を残していった。そこには87歳の父・種次郎の俳句が板壁に貼り付けてあった。


こだますら打ち返さざり夏山は





7.「投降命令」



肉親も含めた捜索隊が引き上げて約1年後、昭和49年2月、冒頭の鈴木青年が登場する。


小野田少尉は鈴木青年と徹夜で語り合い、上官の命令があれば、山を下りる、と約束した。鈴木青年は2週間ほどして、上官の一人だった谷口義美・少佐を伴って、戻ってきた。小野田少尉は日暮れ時を狙って、残照の西空を背に、二人のテントの前に出た。少佐が姿を現すと、不動の姿勢をとった。


「小野田少尉、命令受領に参りました」


「命令を下達する」それは思いもかけない「投降命令」だった。


不意に背中の荷物が重くなった。夕闇が急に濃くなった。

(戦争は29年も前に終わっていた。それなら、なぜ嶋田伍長や小塚一等兵は死んだのか・・・・)


体の中をびょうびょうと風が吹き抜けた。







 3月9日午後6時30分、谷口は投降命令を文語文で読み上げ、小野田もそれに応じた。

3人はそのまま徹夜で3月10日午前6時まで話し合い、最新のフィリピンのレーダー基地偵察情報も含め長い長い「戦闘」報告をかつての上官に話し終えた小野田は下山を納得、山を降りた小野田を住民は笑顔で手を振って迎え、「住民に憎まれている」と思っていた小野田を驚かせる。島民の多くは、島にずっと残っていた日本兵の中で小野田が最も穏健な兵隊だったとしており、悪感情を持つ者がいなかったのである。

 午後9時25分、フィリピン空軍基地に着いた小野田はランクード司令官に軍刀を渡し降伏、司令官は小野田に軍刀をその場で返したという。






司令官は小野田について「軍隊における忠誠の完全な手本」などと評している。軍隊賛美はタブーであった日本国内より海外での反応の方がストレートであった。小野田は記者会見で「29年間、嬉しかった事は今日まで何もありません」と語っている。小野田はジャングルでは武器や物資を何ヶ所かに分けて保管してロビンソン・クルーソーのような生活をしていた。月も自分で数え、30年間で6のずれしかなかったという。

 小野田下山の報を聞いた和歌山の小野田の父は「フランスのエアバス事故で48人もの日本人が亡くなった。それに比べて寛郎はたった1人、それがこんなにたくさんの全国の人から祝福されて。冥加に尽きます」「私は世界一の果報者」と語り、母は「寛ちゃんよう出てきたなあ、死ぬに死ねん気持ちで待ってたんやで」と語った。またこれまで最後の日本兵とされていた横井は自分は下士官で小野田は将校だから環境が違うとしながらも、小野田が有名になってくれると自分も気が楽になるなどと語っている。一方で戦争未亡人やいまだに骨が戻ってきていない兵士の遺族らは四半世紀前を思い出し、「今夜は眠れそうにない」と仲間内で訴える者もあったという。

 3月11日、小野田はマニラでマルコス大統領を訪ねて降伏を告げた。自らもゲリラ隊長として戦闘に参加した経験のあるマルコス大統領は小野田について「立派な軍人だ」と誉めている。日本への帰国を前に小野田は小塚の撃たれた場所を訪れた。ひざまずいて涙を流す小野田。小塚が撃たれた四十九の夜、小野田はこの場所を訪れていた。その時に「戦友」の歌が口をついて出たという。

 3月12日、午後4時30分、小野田は羽田空港に到着、すでにマニラの時点ですっかり垢抜けてジャングル生活の片鱗すら見せないほどに周囲に溶け込んでいた小野田の帰国は堂々としたものだった。背広姿で笑顔で手を振り、数日前までの兵士姿のイメージはどこにもなかった。出迎えには小野田の両親、戦友らも来ていた。「寛郎、母が最後に言った言葉を最後まで守ってくれて、有難うございました。えらかったのう」と小野田の母は捕虜になるなと小野田と出征前に約束した事を小野田が守った事をいたわり、両親とも感無量の様子であった。しかし小野田も両親も感情は押さえ気味で、これはほかの遺族に遠慮があったのではないかとされている。小野田はその後の記者会見では淀みなく答えていたが、小塚の話になると涙を溜めてまともに答えられなかった。

 この日の羽田空港では東京発那覇行きの日航機が精神異常の18歳の男にハイジャックされる騒ぎがあり、ノーベル賞を受賞したばかりの江崎玲於奈も午後4時5分に到着、そうした中の小野田の帰国である。小野田は新宿区戸山の国立第一病院へ車で向かう途中、横井と同じくモノレールに驚いた。そして病室で弟がマヨネーズをつけたキュウリを差し出すと「フランス料理か」と怪訝な顔をして口にしたが、「うまい」と4本も食べたという。

 3月13日朝、東京の空は珍しくスモッグのない青空だった。「きれいな空だ。毎日こんなかな」と小野田。小野田はジャングルに30年もいながら情報将校らしく考え方は意外に融通性があり、女性についても「思うように行動する女性が美しい」と語り、初めて口にしたコーラも「うまい」と一言。女性の顔の好みは水戸光子と古い女優の名前を出したが、無線で同時代の情報も仕入れており、ハイセイコーの名前は知っていた。マスコミのヘリには「銃を撃たれるような気がする」としていたが、「みんな朝早くから仕事しているんだから応えてあげないと」と病室の窓から顔を出すなどもしていた。小野田が投降を渋ったのは、何度もやって来た捜索隊の呼びかけが昭和20年のアメリカ軍の呼びかけにそっくりで警戒していた事、アメリカ軍の投降呼びかけも日本人が使われていた。目の前で仲間2人が撃たれるのを見ており用心深くなっていた事や、戦争終結についても半信半疑で、捜索隊で多くの日本人が来るのを見て逆に日本が優勢なのではないかと勘違いしていたという。

 なお小野田救出の功労者、鈴木紀夫は昭和61年9月29日に雪男を探すために日本を出発、ヒマラヤ入りし11月初めにはダウラギリ4峰中腹に到着していたが、その後、消息を絶つ。そして昭和62年9月15からの登山仲間による捜索で、9月28、高度3700m地点のヒマラヤのダウラギリ4峰中腹で遭難死体で発見されている。鈴木の発見状況から雪崩に巻き込まれたものと推察され、シェルパの死体も発見された。10月6日午後10時、38歳だった鈴木の遭難死体発見は日本に伝えられた。小野田は「死に残った身としては淡々と受け止めているが、友人の死は残念だ」と語り、出発前に鈴木が「雪男をビデオに撮ってきます」と笑っていた事を偲んだ。

 小野田の後にも最後の日本兵はいた。昭和49年12月26日、インドネシアのモロタイ島のジャングルで中村輝夫を名乗る日本兵が発見される。中村は台湾の高砂族で昭和18年11月に陸軍特別志願制度に応募して一等兵となり、昭和19年7月12日にモロタイ島に上陸していた。しかし昭和20年3月5日の戦闘で行方不明となっていた。中村の本名はアスン・パラリン。昭和49年時には55歳であった。中村は多くの日本兵らと昭和30年まで一緒に農作業などをして暮らしていたが、「こんなに大勢、一緒にいたのではアメリカ軍に見つかる」と1人、ジャングルへと消えたのが最後だったという。中村以外は全員、昭和30年に救出された。中村は終戦を知らず、楽しい時も悲しい時も「歩兵の本領」などを歌って自らを励ましていた。

 昭和50年1月8日、中国名では李光輝という名前を貰っていた中村は台北に帰国、妻と31年ぶりの再会を果たした。中村の妻は再婚していたが、中村の無事を知った再婚相手がこの日のために離婚をしていたのである。中村は1月9日に故郷に凱旋。これに先立つ1月4日、厚生省は中村を昭和22年5月2日付で兵長に2階級特進させる事を決定した。日本名、部族の本当の名前、中国名と3つの名前を持つ中村以降、日本兵の出現は絶えてないままとなっている。実際にはフィリピンのミンダナオ島はじめ現地の山奥で農民となってしまった日本兵は相当数いたとされるが、当人が恥じて公に名乗るのを嫌がるなどして実態はつまびらかではない。また小野田は昭和49年10月28日にブラジル移住を決意して、その後、日本を離れている。


<当時の動画



引用:
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/49a.html
http://www.philippine.me/paruparo/1199

関連リンク
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