柴五郎


明治33年(1900年)に北京で義和団事件が起こり、各国大使館は義和団に包囲されましたが、籠城戦で大活躍したのが日本の柴五郎中佐です。また、義和団鎮圧後に各国は掠奪、暴行の限りを尽くしましたが、日本軍はそのようなことをせず、規律正しかったため、この後の日英同盟に結びついています。司馬遼太郎著「坂の上の雲」ではこのことが少ししか書かれておらず、秋山好古と柴五郎は士官学校の同期で、秋山真之とは米西戦争の観戦武官としてキューバで一緒だったことが書かれています。

 柴五郎は会津の出身で明治元年(1868年)の会津若松落城のときは10歳でした。幼い頃は「キンネン五郎」と呼ばれ、珍しいくらい大人しい子供だったといいます。戊辰戦争のとき五郎は大叔母の家におり、難を逃れましたが、母ら女性らは会津城下におり、官軍が攻めてきたときに全員自刃して果てました。会津藩は降伏し、城内にいた父と兄は東京へ送られ、翌年五郎も東京へ護送されました。その後、土佐藩の公用人宅に学僕として住み込み、さらにその後、旧会津藩の藩士らは下北半島の斗南へ流され、五郎もそこへ行きました。映画で「北の零年」というのがありましたが、それの会津藩版のようなものです。劣悪な環境化で凍死、餓死するものが次々とでました。五郎は死んだ犬の肉まで食べたといいます。

「武士の子たるを忘れたか。会津の武士ども餓死して果てたるよと薩長の下郎武士に笑われるのは、のちの世までの恥辱なり」

こう父親に叱責され想像を絶する生活に耐えていきます。

 明治4年(1871年)、五郎は青森県派遣の給仕に選ばれたのをきっかけ人生が急展開し、東京に行き、明治6年、陸軍幼年学校に入学しました。このとき秋山好古と同期になります。その後、陸軍士官学校に進んだ五郎は諜報員になることを目指し、明治17年には清国駐在となり大陸を念入りに調べていきます。このことが義和団事件の北京籠城にあたって大きな力になったといわれています。日清戦争後は台湾総督府の陸軍参謀、ロンドンの公使館付き陸軍武官を経て明治31年(1898年)に米西戦争の折にアメリカに行き、秋山真之と一緒になります。

 明治33年(1900年)義和団事件が勃発。各国公使は協力して義和団にあたることになりましたが、総指揮をとったオーストリアのトーマン中佐の判断ミスによりオーストリア兵が逃げ出すという失態がおこり、イギリスのマクドナルド公使が総指揮をとることになりましたが、軍人出身のマクドナルド公使は柴五郎の才能を見抜き、5カ国の兵の指揮官を命じます。どのような苦境にあっても冷静沈着な柴五郎の指揮と日本兵、義勇隊の活躍に籠城の各国兵士は士気を鼓舞され、どの国の武官も柴五郎の指揮下に好んで入るようになり、すべての作戦計画は柴五郎に裁可が求められるようになりました。柴五郎は諜報員としての得意の密使を使い天津の日本軍と連絡をとり、55日の籠城戦を持ちこたえました。

英スタンダード紙社説
「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と推しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない」

 明治37年(1904年)日露戦争が勃発。柴五郎は砲兵連隊を率いて従軍。日露戦争後はロンドンに着任し、少将に昇進。日英同盟に関する協議に参画します。明治44年(1911年)、上海に派遣され、辛亥革命の諜報活動にあたります。その後も軍人として活躍し中将に昇進し、大正8年(1919年)、陸軍大将に昇進しました。会津藩は賊軍や逆賊とさげすまれた歴史があり、会津藩出で陸軍大将に昇進したのは初めてのことでした。その5年後に引退。

 昭和16年(1941年)真珠湾攻撃の際の自筆の略歴
「万歳を叫び、狂喜感涙するのみ」

 昭和20年(1945年)敗戦のときの柴の日記
「玉音を拝承し、悲憤激昂、生を欲せざらんとす。さきに戦局の順調なる時に生の終わりざりしを恨む」
「国のために生きた自分の使命は終わった。かくなるうえは、潔く武人としての最期を飾りたい」

 同年9月15日に切腹を計りますが、老体とあってうまくいかず、致命傷には至りませんでしたが、その傷がもとになり12月13日帰らぬ人となりました。享年87歳。

引用元:http://jjtaromaru.blog76.fc2.com/blog-entry-15.html




1899年~1900年、支那(清国)で、「義和団の乱」、「義和団事件」または「北清事変」と呼ばれる支那人による外国人大虐殺事件が発生した。

義和団はもともと「義和拳」と称する武術を修練する、山東省西部地方の自衛団的な組織だったが、山東省にドイツとキリスト教が進出したことに反発し、外国勢力に対する過激な排斥運動を開始した。

武装した支那人狂信者の集団(義和団=拳匪)が支那在住の外国人を大虐殺した。

乱はたちまち全土に広がり、特に111年前の1900年6月になると外国人にとってさながら地獄図となった。

1900年6月13日、義和団が北京内城に入城した。

このままでは北京に居る外国人は皆殺しになるのだが、援軍を頼もうにも本国からでは間に合わない。

そこで諸外国は日本に援軍の依頼した。

近代国家へ歩み出したばかりの日本は「侵略の野心あり」と疑われてはと警戒し、すぐには動かず、諸外国から再三の要請を受けてからやっと出動し、連合軍の主力となって乱を鎮圧した。

北京を占領した連合軍は各所で略奪を開始し、頤和園も略奪と破壊の対象になったが
日本軍だけが略奪に参加しなかった事実は世界的に有名だ。

ところで北清事変の結果、清朝政府は列強に賠償を支払い、かつ他国の軍隊の駐兵権を与えざるを得なくなった。そのとき日本は北京に2600人を駐兵することを許されたのである。昭和12年(1937年)7月に日本軍部隊が北京郊外の盧溝橋にいたのは、そういう経緯があったからである。
日本軍の軍律の素晴らしさを讃えた人の中にフランスの国際法学者のポール・フォーシーユ氏がいる。
また、著書としてはフランスのフィガロ紙の従軍記者のカレスコート・イリュスト氏と、ラシオン紙のラロ氏が2人で書いた『日本軍戦闘観戦記』、ウッドハウス暎子女史の『北京燃ゆ』、ジョージ・リンチ氏の『文明の戦争』などがある。


そして、義和団事件後に結ばれた『北京議定書』によって、当時マトモな警察がなかった支那に代わって外国の軍隊が支那に駐屯して支那の平和と秩序を維持することとなった。

したがってである。

「日本軍が支那に居て支那で戦争が行われたのだから、日本の侵略だ。」という大馬鹿どもが後を絶たないが、それはただ単にその大馬鹿どもが無知なだけ。

今自衛隊が在日米軍や在日アメリカ人を攻撃すれば、日本国内でアメリカと日本の間で戦争が始まるが、その場合「アメリカの侵略だ」と言えないのと同じことだ。





「義和団の乱」(義和団事件)(北清事変)は、世界の大国であったイギリスがアジアの片隅の日本を信頼すべき相手と認め、日英同盟を生み出すきっかけとなった事件でもある。


小松宮殿下に随行し、英国王EdwardⅦ戴冠式に渡英した柴五郎

引用元:http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/45185226.html

柴五郎中佐
~日英同盟締結の影の立役者~

コロネル・シバ

~1900年北京での多国籍軍司令官
義和団に襲われた公使館区域を守る多国籍軍の中心となった柴五郎中佐と日本軍将兵の奮戦。


■1.唐突な日英同盟締結の背景■

 ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例のスピードで同盟締結の運びとなった。

 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。
しかし、当時の超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。
その背景にはマグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。

■2.義和団の地鳴り■

 1985(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあげ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしりとる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍をとった。

 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒を襲うようになっていった。

 1900(明治33)年5月28日、義和団の暴徒が北京南西8キロにある張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出す一方、天津の外港に停泊する列国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。日本も軍艦愛宕からの25名の将兵が参加した。今風に言えば多国籍軍である。

 6月4日、北京‐天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった。すぐに2千の第2次混成部隊が出発したが、鉄道の修復に時間がかかり、いつ北京にたどり着けるか、分からない状態だった。

■3.籠城計画■

 北京の公使館地域は東西約9百メートル、南北約8百メートルの方形であり、ここに欧米10カ国と日本の公使館があった。
6月7日、各国の公使館付き武官と陸戦隊の指揮官がイギリス公使館に集まって、具体的な防衛計画が話し合われた。
 
 日本の代表は、この4月に赴任したばかりの柴五郎中佐であった。柴は英仏語に堪能で、また地域の詳細な防御計画も持参していたが、始めのうちは各国代表の議論を黙って聴いていた。日本の兵力が少ないこともあったが、まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。

 柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合う意見については「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった。

■4.義和団の来襲■

 6月11日、日本公使館の杉山書記生が惨殺された。救援部隊が来ないかと北京城外に出て、戻ろうとした所を清国の警備部隊に捕まり、心臓を抉り抜かれ、その心臓は部隊長に献上された。外交団は治安維持の頼みとしていた清国官憲までも外国人襲撃に加わったことに衝撃を受けた。

 13日、公使館区域に4,5百人の義和団が襲いかかった。おおぜいたむろしている清国官兵は、見て見ぬふりをしている。しかし刀や槍を振り回す暴徒は、列国将兵の銃撃に撃退された。
 14日、怒った暴徒は、公使館区域に隣接するシナ人キリスト教民の地域を襲った。凄まじい男たちの怒号と、女子どもの悲鳴が公使館区域まで聞こえてきた。一晩で惨殺された教民は千人を数えた。

 15日、タイムズの特派員G・モリソンはイギリス公使マグドナルドを説き、20名の英兵を率いて5百人余りの教民を救出してきた。しかし、それだけの人数を収容する場所がない。
 困ったモリソンが、シナ事情に詳しそうな柴中佐に相談すると柴は即座に公使館地域の中央北側にある5千坪もの粛親王府を提案した。粛親王は開明派で、日本の近代化政策を評価していた。柴が事情を話してかけあうと、教民収容を快諾した。

 この王府は小高くなっており、ここを奪われれば、公使館地域全体を見下ろす形で制圧されてしまう。この事に気づいていた柴は教民たちを動員して保塁を築き始めた。欧米人と違って、日本人の多くはシナ語を話せたため、彼らは日本兵によくなつき、熱心に協力した。また30名ほどの義勇兵も出て、日本軍と共に自衛に立ち上がった。


■6.清国軍も攻撃開始■

 6月19日、シナ政府から24時間以内に外国人全員の北京退去を命ずる通牒があった。抗議に赴いたドイツ大使は清国兵にいきなり銃撃され、即死した。

 20日午後からは、地域の警備についていた清国軍が公然と攻撃を始めた。暴徒とは異なり近代装備を持つ清国軍は大砲まで持ち出して、公使館区域を砲撃した。

 最初の2日間の戦いで区域の東北端に位置するオーストリーとベルギーの公使館が火を放たれて、焼かれた。西正面と北正面を受け持っていたイギリス兵は、イギリス公使館が西から攻撃を受けると、そちらに移動してしまった。

 北正面ががらあきとなり、清国軍が侵入するには絶好の隙間が生じてしまった。少数の日本将兵と教民たちがたてこもる北辺の粛親王府が破られれば、そこから清国軍は区域全体を見下ろし、砲撃することができる。清国軍は激しい攻撃を加えてきた。

 区域全体の総指揮官に推されたイギリス公使マグドナルドは、粛親王府の守備を固めるために、イタリア、フランス、オーストリー、ドイツの兵に柴中佐の指揮下に入るよう命じたが、兵達は土地は広く、建物は迷路のように錯綜する王府を見ると、「とてもじゃないが守りきれない」とそれぞれ自国の公使団保護に帰ってしまった。

■7.日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ■

 王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人 義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。

 数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。・・・

 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。


 この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで、2ヶ月余り続く。睡眠時間は3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。

 6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。
弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。

イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記している。

 王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・

 日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれにつづく。しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。


■8.安藤大尉の奮戦■

 王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。

 イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。

 安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。館内の敵を一掃すると、今度はイギリス兵が出撃して、30余名の敵を倒した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。

 後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。

 戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。・・・ 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。

 当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったがこの籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。

 日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。


■9.コロネル・シバ■

 救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。

 14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。

 北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである。

 柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた誇らしい感情を味わっていた。

 柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。

 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりから、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したのであろう。

引用元:http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog222.html


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