シモヘイヘ




雪のように白いギリースーツに身を包み、生涯で500名以上の人間と数え切れぬ数のケワタガモを射殺したシモ・ヘイヘ。
1940年の冬戦争ではヘイヘ含む32名のフィンランド軍で4000人のソビエト軍を撃退した。
以下がそのヘイヘの逸話である、まさに英雄。

■わずか32人のフィンランド兵なら大丈夫だろうと4000人のソ連軍を突撃させたら撃退された。

■シモ・ヘイヘがいるという林の中に足を踏み入れたら一時間後に小隊が全滅した。

■攻撃させたのにやけに静かだと探索してみたら赤軍兵の遺体が散らばっていた。

■気をつけろと叫んだ兵士が、次の瞬間こめかみに命中させられ倒れていた。

■スコープもない旧式モシンナガン小銃で攻撃、というか距離300m以内なら確実にヘッドショットされる。

■「ボルトアクション」でしかもリロード時間込みで、いとも簡単に一分間に150mの距離から十六発の射撃に成功した。

■野営中の真夜中にトイレからテントまでの10mの間にヘッドショットされ即死。

■戦車と合流すれば安全だろうと駆け寄ったら、戦車長をシモ・ヘイヘが狙撃済みだった。

■赤軍の3/100がシモ・ヘイヘからの狙撃経験者、しかも白い死神という伝説から「積雪期や夜間ほど危ない」。

■「そんな奴いるわけがない」といって攻撃しに行った25名の小隊が、一日で全員遺体になって発見された。

■「サブマシンガンなら狙撃されないから安全」と雪原に突撃した兵士が穴だらけの原形を留めない状態で発見された。

■迫撃砲に砲撃してもらおうと無線機を使おうとしたが何者かに狙撃され大破されており伝令を走らせても砲撃がなく、仕方なく砲撃陣地を見に行ったら頭に穴のあいた伝令と砲兵が死体で発見され、死体を見て「ヘイへがやったんだ・・・」と言った兵士が次の瞬間頭部を失い雪原に倒れていた。

■足元が柔らかくないので雪を掘ったら、狙撃された兵士の遺体が大量に出てきた。

■五階級特進で少尉となったシモ・ヘイヘに狙撃の秘訣を尋ねると、ただ一言「練習だ」。

■コラー河付近はシモ・ヘイヘに殺される確率が150%。一度狙撃されて負傷する確率が100%なのと、その後運よく生き延びてももう一度狙撃され死ぬ確率が50%の意味。

■シモ・ヘイヘが狙撃で殺害したソ連兵は正式なものだけで少なくとも505人、他にこれまた特技であったサブマシンガンで殺害したソ連兵の数は正式なものだけで200名以上。

■さらに、開戦当初は狙撃でもサブマシンガンでもソ連兵の殺害数をカウントしていなかった。

■ヘイヘ抹殺指令を受けたソ連兵がその晩、遺書を書いた。



以下、wikipediaより引用

シモ・ヘイヘ(1905年12月17日 - 2002年4月1日)は、フィンランドの軍人、狙撃手。フィンランドとソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、ソビエト赤軍から“白い死神”と呼ばれ恐れられた。史上最多の確認戦果505名射殺の記録を残している

生い立ち
現在のロシアとの国境近くに位置する小さな町ラウトゥヤルヴィで生まれる。軍人になる前は猟師兼農民として働いていた。伝えられるところによると、彼の家には自らの射撃の腕前によって得た多くのトロフィーが飾られていたという。1925年にフィンランド陸軍へ入隊する。

軍歴

【冬戦争】
1939年から1940年にかけて起こった冬戦争では、フィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊に配属され、故郷の町に近いコッラー川の周辺での防衛任務に就いた。
ヘイヘは平均気温-20℃から-40℃という酷寒の中で、純白のギリースーツに身を包んで狙撃を行い、その活躍によって赤軍兵士から“白い死神”("Белая Смерть"(ベーラヤ・スメルチ、フィンランド語では"Valkoinen Kuolema")や“災いなす者”などとあだ名された。
冬戦争中のコッラーの戦いにおける丘陵地を巡る戦闘では、ヘイヘを含むフィンランド軍32人が4000人の赤軍を迎撃[要出典]、拠点防衛に成功し、この丘陵地は“殺戮の丘”と呼ばれた。フィンランド軍は終戦までコッラー河付近の領土を守り抜き、この戦果は後に“コッラーの奇跡”と名付けられた。


【活躍】
ヘイヘは狙撃において、ソビエト側では旧式になりつつあったモシン・ナガンM28を使用していた。冬戦争当時のフィンランド軍の制式装備の多くはソビエト製だったが、物資や銃弾が極端に不足していた。このため戦場で敵の装備を鹵獲して使用する必要に迫られ、ヘイヘも敵の武器であるモシン・ナガンを使用することになった。ヘイヘは身長約152cmと小柄であったが、120cm以上あるこの銃を手足のように自由に扱ったと言われる。後にその活躍から、サコ社によって調整された特製のモシン・ナガンを与えられている。
モシン・ナガンには3.5倍から4倍の倍率を持ったスコープが装着できたが、ヘイヘはこれを使用せず、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみで狙撃を行った。これは、猟師時代からの射撃姿勢への慣れ[5]と装備の軽量化に加え、スコープのレンズによる光の反射で自らの位置を悟られるのを嫌ったことによる。ヘイヘの使用したモシン・ナガンのうちの1丁は現在もフィンランド国立軍事博物館に展示されている。
ヘイヘの狙撃技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、これは元猟師だった赤軍のヴァシリ・ザイツェフや、アボリジニーの猟師出身者が多い現代のオーストラリア陸軍SAS狙撃兵などの経歴と共通する。ヘイヘの狙撃は連続的な射撃と精度を両立していたとされる。狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に16発の射的に成功したという逸話[6]が残され、実戦でも300m以内ならほぼ確実に目標の頭部を狙撃したと言われている。
ヘイヘの公式確認戦果である505人は世界最多記録として知られるが、このなかには狙撃銃以外の火器による殺害数は含まれていない。ヘイヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では200人以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており、1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも25人の赤軍兵士を殺害し、クリスマスの夜には通算殺害数が138人に達していたという。


【負傷】
重大な脅威であるヘイヘを排除するべく、赤軍は大砲や狙撃手を用いて攻撃を行った。にもかからず、防寒着の背中を砲弾の破片によって切り裂かれた他はヘイヘは負傷と無縁であった。しかし、1940年5月6日に起きた戦闘で赤軍兵士の銃撃によりあごを撃ち抜かれる重傷を負う。意識不明のまま友軍に救出されたが、彼を収容した兵士が「彼の頭は半分なくなっていた」と述べるほどの深傷であり、一命はとりとめたものの生涯消えない傷痕が残った。ヘイヘは負傷から一週間後の5月13日に意識を回復したが、その前日にモスクワで締結された講和条約により冬戦争は終結していた。


戦後

終戦後、ヘイヘはグスタフ・マンネルヘイム元帥と面会し、第一級自由十字褒章とコッラー十字章を受勲。さらに、兵長から少尉へと5階級もの特進を果たした。その後は戦場に出ることはなく、猟師兼猟犬の繁殖家として余生を過ごした。猟師としてはヘラジカを対象にし、第8代フィンランド大統領であるウルホ・ケッコネンと一緒に狩りを楽しんだこともあった。
1998年にインタビューを受けて、狙撃の秘訣を聞かれた際、ただ一言「練習だ」と答えた。また、多くの人間の命を奪ったことについて後悔の念はないかと問われて、「やれと言われたことを、可能なかぎり実行したまでだ」と述べている。
2002年4月1日、かつて自らが守ったロシアとの国境線近くの町、ルオコラハティにて、96歳でこの世を去った。死後の2004年、フィンランド国営放送が発表した『フィンランドの偉人』ランキングにて視聴者による投票の結果、第74位(全体第1位のマンネルヘイムに次いで軍人としては2位)に選定された。





引用元
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%98
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%98


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