6000人ものユダヤ人を救った杉原千畝

杉原 千畝(すぎはら ちうね、SUGIHARA "Sempo" Chiune、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は日本の官僚、外交官。

第二次世界大戦中、リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は、外務省の命令に反して独自の判断でユダヤ人が亡命できるようにビザを発給し、ナチス・ドイツによる迫害からおよそ6000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られている。
海外では、「日本のシンドラー」とも呼ばれています。


「命のビザ」発給


 第二次世界大戦の後期、ヒトラーによるユダヤ人迫害も激しさを増し、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。
そして1940年、戦争の激しくなったこの頃リトアニアの日本領事代理をしていた杉原に、ある決断を迫られる出来事が起こります。
ただならぬ気配を感じ、窓の外を見れば、リトアニアの首都カウナスにある日本総領事館の前に二、三百人の群衆が激しく手を振って盛んに何かを訴えかけてい るのです。ナチスの目を盗んで逃げてきたユダヤ人たちが、ヨーロッパから逃れるために、日本への通過ビザを求め、領事館前におしかけたのです。命からがら 逃れて逃れてきた群衆たちは、杉原に対して、次のような嘆願をしました。

ナチスのユダヤ人狩りからのがれることのできる国は、もう西ヨーロッパにはありません。オランダもフランスもドイツに負けてしまいました。わたしたちユダヤ人にとってソ連から日本を通ってアメリカや南米に逃げていく他ないのです。

ナチスの迫害から逃れるために、日本通過のビザを発給してもらいたい

杉原は早速、外務省に人道的見地から「ビザを出してもいいですか。」と日本の外務省へユダヤ難民に対する通過ビザ発給の許可を求めました。しかし当時、外 務大臣の松岡洋右の回答は以外にも「正規の手続きができない者に、ビザを出してはいけない。」というものでした。当時、日本はドイツと手を組んでいました から日本領事館がユダヤ人にビザを発行すれば、ドイツから敵と見なされますので日本政府は、ドイツを刺激することを避けたとしか考えられません。
杉原は人間として悩みに悩んだ末、ユダヤ系ポ-ランド人たちが現れてから四日間が過ぎたある日、一つの答えを出したのでした。

私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。

杉原は、責任を持ってビザを発給することを人々に告げ、大きな歓声が湧いたのでした。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、千畝と妻・幸子はベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1か月余りビザを書き続けたとされ、その間発行されたビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでも2139枚、家族を含めて少なくとも6000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたのです。



杉原千畝に対する評価


 やがて壮絶を極めた第二次世界大戦は、同盟関係にあった日本とドイツはともに惨めな無条件降伏を受諾して、それぞれ終戦を迎えた。
六千人のユダヤ人の命を救った杉原は、昭和二十二年(1947年)、終戦間もない祖国日本に帰国しました。しかし国の命に従わなかった杉原に対する外務省 の態度は、思いの外に厳しいものだったのです。何と杉原は、詳しい理由も告げられないまま、外務省を「解職」という処分が下されました。(後に外務省は、 あの時は「人員整理のため」であったと答えているが、独断でビザを発行した責任によることは明白であります)
その後、主に語学力を活かした職を転々とした杉原は1968年、杉原の許へ一人のユダヤ人が訪れてきます。彼は、元ユダヤ人難民の一人のニシュリという人 物で世界中のユダヤ人達が、杉原のことを探し続けていた事を告げ、彼はボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に言いました、
「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」
この言葉は、杉原にビザを発給してもらい助け出されたユダヤ人全員の願いでもありました。ちなみに一個人として救ったユダヤ人の数はシンドラーの何倍にもあたり、その事実は世界的に評価されています。


再会を果たした杉原とバルハフティック

翌1969年、難民時代に杉原が助けたバルハフティク・イスラエル宗教大臣より勲章を受ける。
1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。イスラエルは、杉原の勇気を最大限に讃え、エレサレムの丘の上に顕影碑まで建立した。(現在でもエルサレムの丘にそのときの顕彰碑が建っている)この時、既に杉原は八十五歳となっていた。
1986年7月31日、心臓病で死去。享年86。
2000年10月10日には河野前外務大臣が杉原千畝に対する当時の外務省の対応について、「いろいろご無礼があった。心からお詫びする。」という謝罪と、「人道的で勇気ある判断をした素晴らしい先輩。」という賛辞を贈りました。

晩年、杉原はビザ発給の動機を尋ねられ、こう返答しました。

あなたは私の動機を知りたいという。それは実際に避難 民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。避難民には老人も女もいた。当時日本 政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、内務省の役人はただ興奮してい るだけだった。本国の関係者の意見は一致していなかった。彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。だから、返答を待つのはやめようと決心した。いずれ誰 かが苦情をいってくるのはわかっていた。しかし、私自身、これが正しいことだと考えた。多くの人の命を救って、何が悪いのか。人間性の精神、慈悲の心、そ ういった動機で、私は困難な状況に、あえて立ち向かっていった。


引用元:http://yamat00.web.fc2.com/sugihara.html

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