東郷平八郎(1847-1934)

日本海海戦においてロシアのバルティック艦隊を壊滅させた、日本連合艦隊の司令長官である。

日露戦争の英雄として世界中に広く知られるが、元来寡黙なタチだった上、病弱だった事もあって周囲からの評価は決して高いとは言えなかった。ところが、日露戦争開戦に先立ち、日本海軍の育ての親とも言える海軍大臣山本権兵衛による大抜擢を受け、閑職であった舞鶴鎮守府司令長官から、一躍表舞台へと登場する事となる。

それまで、日露開戦時の艦隊司令長官は、当時の常備艦隊(平時の艦隊)司令長官であった豪傑、日高壮之丞中将(薩摩藩)がそのまま任命される事に疑問を挟む者はおらず、当の日高中将も自らが日本海軍を率いてロシアを迎え撃つ心づもりだった。が、幼馴染でもあり、盟友でもある山本大臣が放った逆転人事で、日高はロシア迎撃の大仕事から外される結果となってしまった。これを聞いて激昂した日高は、短剣を抜いて「権兵衛、これで俺を刺せ!!」と山本大臣に詰め寄ったと言われる。

日高に限らず、海軍関係者の多くは常に無口な東郷の実力をつかみ損ねており、その能力は概ね『未知数』という事で一致していた。中には山本の決断を乱暴な人事として露骨に眉をひそめた者もいくらかおり、この時点では、今日世間で言われているような英雄東郷はまだ存在していなかったと言っていいだろう。

この人事については宮中でも話題になったらしく、ある時明治天皇が山本大臣に東郷抜擢の理由をお尋ねになった。これに対して山本大臣は「東郷は運の良い男でございますから」と、あまりにも有名な一言を献上している。

果たして山本は、運だけで東郷を採用したのだろうか?山本が東郷を採用するにあたり、東郷の『熟慮に熟慮を重ねた上で実行に移す』という慎重な性格を評価したと言われている。その性格を如実にあらわす例が、日露開戦の10年前、日清戦争時における英国籍船舶の撃沈事件だ。

東シナ海の海上で『清の兵士』を満載した英国籍の運搬船に遭遇した東郷は、停止命令を無視する英国船への対応に大いに迷った。とは言え選択肢はたったの2 つ、『撃沈』か『放置』のみ。当時はまだ船上から中央へ連絡をとる手段が発達しておらず、国際法に則った『適切な対応』は全て東郷一人にゆだねられた。エリート揃いの海軍において、東郷は決して頭の回転が早い方ではなかった。が、当の東郷自身がその事を深く認識しており、人一倍時間をかけて考え、考え抜いた末に決断に至った。すなわち撃沈である。この結論に至るまで、東郷は清の兵士らを眼前に、実に4時間も熟慮を重ね、この状況下における撃沈が国際法上、何ら問題ない事を確かめあげた上で実行に移したのである。

この事件は一時国内外を騒然とさせたが、結果的に東郷の行動は道理に沿ったものとして、英国との政治問題に発展する事はなかった。山本権兵衛はこの時の東郷の英断を高く評価しており、それが連合艦隊司令長官への抜擢につながった事は間違いないだろう。また、別の要因の一つとして、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』に興味深いエピソードが記載されている。

概略すれば、「…山本権兵衛は若い頃は非常に気性が荒く、同僚らに片っ端から喧嘩をふっかけていた(これは薩摩の風習でもある)。留学から帰国後に配属された艦でささいな事から東郷と口論になり、ここで東郷を打ち負かしてやろうと、得意のマスト昇りで競争し白黒付けようとした。東郷もこれに快諾するが、結果は東郷が半分も登らないうちに山本がマストの頂上まで昇りきるという圧勝だった。が、負けが確定した後も東郷はノロノロとマストの頂上まで昇り詰め、そこで初めて『おいの負けたい!!』と感服して見せた…。」途中でサジを投げず、最後までやり遂げた上で堂々と負けを認める様に、山本は東郷の懐を感じ、大いに関心したとの事である。

こういった経緯もあって連合艦隊司令長官となった東郷は、黄海の海戦で旅順艦隊に打撃を加え、日本海海戦で主力のバルティック艦隊を殲滅。史上類の無い戦果で以って海軍の英雄となるのだが、黄海海戦以後、日本海海戦までの数ヶ月の間は、ひたすら地道に射撃訓練を繰り返し、英国の観戦武官から「拙劣極まりない」と酷評された艦砲技術を「奇跡的な命中率」と唸らせるまでに育て上げた。海戦では「多くの弾を当てた方が勝つ」というシンプルな原理を信条とする一方で、「海上での大砲はそうそう当たるものではない」という現実を薩英戦争以後、身をもって痛感していた東郷が、その性格が表すが如く地道に、ひたすら地道に連合艦隊を研磨した結果、歴史に類を見ない圧勝につながったと言える。彼の司令官としての最大の成果は、地味ながらもここにあったのは間違いない。

東郷には有名な挿話がある。ロシア本国より派遣された主力のバルティック艦隊を迎撃するにあたり、日本海軍は「バルティック艦隊は対馬海峡を通過する」事を大前提とした上で作戦を立案し、それに従って全てが進行していた。が、肝心のバルティック艦隊は5月の14日にフィリピンを出発して以降、いつまでたっても日本の哨戒網にひっかからない。海軍内はおろか大本営でも「ロシアは既に太平洋側を通ったのではないか?」との疑念が日増しに高まっていった。もしそれが本当であれば日本海軍の作戦は全てが水泡に帰すどころか、決戦が先延ばしになる事で戦争が長期化し、講和どころか疲弊した満州の陸軍が壊滅させられる。すなわち敗戦⇒属国化⇒国土消失⇒日本滅亡だ。

「もしも対馬を通らなかったら…」このプレッシャーに耐えかね、作戦立案の張本人である参謀秋山真之が、自ら「対馬迎撃案」の放棄を主張し始めるなど、海軍内の狼狽は目に余るものがあったという。この状況を見かねた第二艦隊の島村速雄(秋山参謀の元上司)はわざわざボートをこいで旗艦三笠の東郷を訪ねた。部屋に入るなり挨拶も抜きで「長官は、バルティック艦隊はどこを通るとお考えですか」と単直に尋ねた。突然の訪問・質疑に驚いた風も無く、少し考えた東郷はたった一言答えて曰く、

「それは対馬海峡よ」

東郷の極端に無口と伝えられるが、若年時はよく軽口を叩いて失敗していたとも言われ、以後発言にまで熟慮を加えた長年の習慣によって、後の無口な性質ができあがったものと推察できる。島村との対面後、そのまま東郷は艦隊を待機させ続け、海戦史上最初で最後の大仕事を遂行する事となる。東郷の姿勢と偉業は、国内のみならず海外の海軍関係者らからも高く評価された。太平洋戦争時の米国太平洋艦隊司令長官のミニッツ提督は、最も尊敬する軍人として東郷元帥の名を挙げている。また帝政ロシアに苦しめられていたフィンランドにとっても東郷は英雄であり、一時期子供にTogoの名前が頻発したとの伝説もある。

戦後東郷は生きながらにして軍神に祭り上げられ、退役後も海軍のご意見番となる。現役の海軍重役が、重要事項を決定の際に必ず東郷の意見を聞く事が習慣化、結果として日本は主力が航空機に移り変わる時勢に乗り遅れ、昭和に入った後も大艦巨砲主義の呪縛にとらわれ続ける事となる。『先人を敬う』儀礼は我々の国民性における尊い部分だが、それは同時に『前例至上主義』による思考停止と紙一重の性質を持つ。その後の日本海軍の行き着く先は歴史の示すとおりである。


日本海海戦の快挙で知られる海軍元帥東郷平八郎は弘化4年(1847)12月22日鹿児島の加治屋町に生まれました。

文久3年の薩英戦争に数え年17歳(満15歳)で参戦したのを最初に戊辰戦争では宮古港海戦と箱館海戦に従軍。
明治4年(1871)から8年間にわたってイギリスに留学して当時世界最強の海軍の合理的な精神に学びました。
明治27~28年(1994-1895)の日清戦争では軍艦・浪速の艦長として活躍、
明治29年海軍大学校長、明治36年10月19日第一艦隊兼連合艦隊司令長官。明治37年海軍大将。



この明治36年の東郷の連合艦隊司令長官抜擢は大方の予想を裏切るものでした。
彼を推薦したのは山本権兵衛海軍大臣ですが彼はその理由を
「彼は運の強い男ですので」と答えたといいます。
戦争において運の強さというのは、大きな武器になります。

日露戦争


当時日本海軍は東郷自身が率いる第一艦隊と上村中将率いる第二艦隊、片岡中将率いる第三艦隊に分かれていました。
一方のロシアは太平洋沿岸に展開する太平洋艦隊とヨーロッパ側バルト海に展開するバルティック艦隊とに分かれていましたが、
日本との決戦のためにはこのバルティック艦隊を日本海に回航して総力で日本海軍を叩くことが必要と思われました。
それに対する日本側は両者が合流する前に各個撃破する必要がありました。
つまりこの戦争の勝敗の行方はロシアの太平洋艦隊とバルティック艦隊が合流できるかどうかにあった訳です。

そのロシアの太平洋艦隊は
遼東半島の旅順(日本語読みりょじゅん、中国読みリュイシュン,現大連市内)、
朝鮮半島東岸の仁川(日本語読みじんせん、韓国語読みインチョン,現ソウル郊外)、
そして北方のウラジオストクなどに展開していました。

黄海海戦


戦闘が始まったのは明治37年2月8日夕方。旅順で日本側が夜襲を掛けたのが最初ですが、これはあまり戦果は得られませんでした。
翌日始まった仁川戦ではロシア鑑二隻を沈めるのに成功しています。そして戦争の主戦場は旅順に移りました。
ここを攻撃したのは主として第一艦隊です。

ここでは日本側が何度も攻撃を掛けても、ロシア側は陸上の砲台から正確にこちらの艦を攻撃して手がおえませんでした。
多くの艦船を失い、作戦中に後に軍神としてあがめられることになる広瀬中佐も戦死しました。
退避中に部下がいないことに気づき助けに戻って船と一緒に沈んでしまったものです。

この陸上からの攻撃が大きな戦果をあげていたロシア側にしても旅順の艦隊自体は充分な働きをすることができずにいました。
ロシア側はこの艦隊をいったんウラジオストクに回航することにし8月10日朝、港から出てきて日本艦隊と向かい合いますが、
日本側は相手の目的がウラジオストクに行くことだとは気が付かず最初取り逃がしてしまいます。

しかしその後相手の意図に気づいてから追い掛けはじめて夕方には捕捉。黄海上で激しい戦闘に入りました。
戦況は必ずしも日本有利とはいえない状況でしたが偶然にも日本側が撃った砲弾が相手側の旗艦司令塔に命中、
操舵手が舵にもたれかかったまま絶命したため突然左手に旋回しはじめ、
その後ろの艦が何かの作戦かと勘違いしてそれに続いたため、相手側は大混乱に陥ります。
結果的にロシア側は旅順の戦力の7割を失う結果になりました。これが黄海海戦です。

蔚山沖海戦


一方この旅順から回航してくるはずの艦隊を支援するためウラジオストク隊も朝鮮半島まで南下してきていましたが、
この艦隊は蔚山(日本語読み いさん,韓国語読みウルサン,釜山から30kmほど北)沖で日本の第二艦隊と遭遇しました。

ウラジオストク隊はそれまで足の速い船を使って日本沿岸をいいように荒し回り、
その対策にあたっていた第二艦隊はなかなか相手をとらえることができずに、
司令官の上村中将はロシアの回し者呼ばわりまでされていましたが、
まさに「ここで会ったが百年目」。

それまでの怨みをこめて激しい攻撃を実施。ロシア側の主力艦を沈めることに成功しました。
ウラジオストク隊はこれで事実上無力化してしまい、結果ロシアの太平洋艦隊はズタズタの状態になってしまいました。
これが蔚山沖海戦です。

戦局の変化


一方のバルティック艦隊が出発の準備に手間取ってやっと出港したのは10月に入ってからでした。
さらには10月21日、北海でイギリスの漁船を待ち伏せしていた日本の水雷艇かと誤認して砲撃してしまう失態を犯してしまいます。
このことで態度を硬化させたイギリスはロシアに一切協力しない方針を打ち出しました。
ロシアが日本までの道筋補給をしなければならないアフリカの諸国はほとんどがそのイギリスの植民地です。
このためロシア艦隊は補給と乗組員の休養を充分に取ることができず、かなり疲れた状態で日本近海までたどりつく羽目になりました。

一方旅順ではロシアの艦隊はかなり弱体化したものの、陸上の砲台は相変わらず脅威で、相変わらず日本海軍はこれに悩まされていました。
そこでこの砲台を陸上から攻略することにし、海軍のトップが陸軍に頭を下げて、攻撃を依頼します。
この任に当たったのが、乃木希典中将(後大将)でした。

しかし乃木は野戦に関してはベテランであっても、こういった要塞攻撃に関するノウハウは持っていませんでした。
彼の二人の息子を含むおびただしい犠牲者を出してしまいます。
一向に戦果をあげられず、ただ突撃攻撃を繰り返すだけの乃木に怒った児玉源太郎参謀長は
一時乃木から指揮権を譲らせ、数十門の大砲を203高地に近い高崎山に設置。
12月5日、ここからの砲撃により、わずか半日でこの要塞を落としてみせました。
(当時乃木を解任しろという声が強かったそうですが、乃木の友人でもある児玉は解任はせずに、一時的に指揮権を譲らせる形でここを乗り切りました)

そして203高地を押えた日本軍はただちにここに自軍の砲門を設置。
相手の機先を制してここからの砲撃により逆に旅順港にいた残りのロシア艦船を全部沈めてしまいます。
これでいよいよ残る敵は北上してくるバルティック艦隊だけになりました。

運命の分かれ道


そのバルティック艦隊は何らかのルートで日本近海を通過しウラジオストクに入って
そこを拠点として日本側を牽制することが想定されましたが、それをされると更に長期戦を覚悟せねばならず、
長期戦になれば国力のない日本には厳しいことになります。
早期に戦争を終結させ少しでも日本側が有利な内に講和を結ぶためには、
この艦隊の北上自体を阻止する必要がありました。

そのウラジオストクに入るには、対馬海峡・津軽海峡・宗谷海峡のいづれかを通過することになります。
日本側としてはロシア側がどこを通過するのか予測できず、軍部首脳の意見も分かれました。
そこでどこに来てもすぐに対処できるように主力を取り敢えず朝鮮半島南部鎮海(ちんかい)に集めて、動きを探っていました。

5月25日にはロシア艦隊がなかなか姿を見せないことから津軽海峡か宗谷海峡を回ったに違いないという意見が強く出て、
北方への移動が決まりかけますが、藤井較一・島村速雄の両名が強硬に反対。あと1日待つことになりました。
これが結果的に幸運を招きました。26日、ロシアの輸送船が上海に入港したという連絡が入ったのです。
上海で輸送船を切り離してしまったということは太平洋を回って津軽海峡か宗谷海峡を目指すことはできず
対馬海峡を通るしかないということになり、日本はギリギリの段階でロシア側の行動を知ることが出来ました。

一方のロシア側はおそらく日本側は三海峡に分散させて待ちかまえているだろうから、
どこを通っても同じなのでそれなら最短距離の対馬海峡を通過し、
相手が3分の1の勢力なら多少の被害は出るかもしれないが大半の艦船は
ウラジオストクに到着できるだろうと考えていたといわれます。

そして翌27日早朝、哨戒作業にあたっていた日本海軍の巡洋艦信濃がロシア艦隊を発見、ただちに無線で本隊に報せました。
この時日本側は各艦に最新の無線設備が装備されていたのに対して、
ロシア側は新しい船から古い船までゴチャゴチャであったため、
急ぎの連絡が取り合えない状況であったといいます。
日本海海戦は無線という当時のハイテクの勝利でもありました。


日本海海戦



旗艦三笠に乗船する東郷司令官は「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と各艦に戦闘態勢を取るよう司令しました。(参謀・秋山真之の起草)

本格的な砲撃戦の開始はその日の午後になります。
日本側はT字状に展開して、ラインで相手艦船を捉え、1個ずつに集中攻撃をして、ひとつずつ沈めていく作戦を採ったといいます。
狭い対馬海峡故に相手が横に広がることができないのを利用したうまい作戦でした。それに無線による緻密な連絡の取り合いが効いています。
これに対して横の連絡がうまく行っていないロシアは各艦船がバラバラの攻撃を繰り返し、両者の戦果は歴然としていました。

翌日午前中までにバルティック艦隊は3分の2の艦船が沈み、降伏した艦船などをのぞくとウラジオストクにたどりついたのはわずか3隻。
5000名の死者と6000名の捕虜が出ました。一方の日本側の戦死者は117名に留まっています。

この戦いで日本にはどっちみち来れない黒海艦隊をのぞく主力海軍が壊滅したロシア側は講和を結ばざるを得なくなり、
日露戦争は日本側の勝利で終了したのでした。明治38年9月講和条約が調印されます。

東郷はその年12月戦争が終わって連合艦隊を解散するにあたり、次のような訓辞をおこなっています。

昔神功皇后が朝鮮に進出してから400年間日本は半島に拠点を築いていたのに、
 ひとたび海軍が衰えると(白村江の戦いで)たちまちこれを失った。
 近年でも徳川幕府の時代に太平になれてしまっていたら、ほんの数隻の
 アメリカ軍艦にも立ち向かうことができなかった。

 平和な時こそ軍人は鍛錬を怠ってはいけない。
 そして時代に取り残されないように技術の進歩を常に図っておかなければならない。
 一勝に満足して太平に安閑としている者はただちにその栄冠を取り上げられるであろう。


この訓辞に一番影響を受けたのはアメリカのルーズベルトであったといいます。
彼は東郷の合理的な精神に感嘆し、アメリカ海軍の装備の近代化と効率的な戦術の開発に腐心しました。

一方の日本側では東郷をただ崇めるだけで、彼の精神を全く尊重しないで、
一勝に満足して、技術の進歩を怠り、単なる精神論だけで時代遅れの訓練ばかりを繰り返し、
そのあとのシナ事変で苦戦し、太平洋戦争で手痛い敗戦を喫することになります。

その間違った世の中の動向を苦々しく思いながら昭和9年(1934)5月30日逝去。
享年88歳。晩年は東宮御学問所総裁などを務めました。侯爵にも叙せられています。
そしてその霊は福岡県の東郷神社ほかに祭られています。
また彼が乗船して指揮をとった三笠は現在横須賀に記念艦として保存されています。



東郷平八郎の初陣、薩英戦争

23歳の時の東郷平八郎(写真後列の右)

1863年(文久3年)7月2日、薩摩一藩とイギリスの軍艦7隻とが、互に銃砲を交え戦火を開いた薩英戦争が起ります。

事の起こりはその前年の8月、武州の生麦に於て島津久光の行列を横切った英国人数名をその場で斬棄てた、いわゆる生麦事件の責任を問うため、同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻が代理公使クールらを乗せ鹿児島湾に来航します。

イギリスは鹿児島藩に対し、犯人の逮捕処罰・25000ポンドの賠償金を要求しますが、島津家では行列を横切った無礼者を成敗するのは日本古来の固い掟であり、謝罪する筋は毛頭御座らぬと要求をはねつけてしまいます。

談判決裂の結果、イギリス側も強硬手段を行使し、この日の暴風雨を衝いて両軍放火を交えるに到ります。薩摩隼人の意気も盛んで、海防の事も整備していたので、各砲撃から一斉に砲口を開いて応戦します。

この時、東郷平八郎は17歳の初陣であり、彼は町田民部の手に属して旗本勢となり、初めは鶴丸城の二の丸を固めますが、その後は北西方に転戦して、警護の任に当ります。

また、後の海軍の父と呼ばれる山本権兵衛は、この時年齢僅かに12歳であり、戦争に参加する事のできないのを無念としながらも、砲弾運びや雑役を手伝います。

しかしながら、イギリス艦が撃ちだすアームストロング砲の着発信管付きの炸裂尖頭弾は、想像もしなかった威力を示し、7月2日・3日の交戦で鹿児島城下を焼き全砲台を大破します。さらに敵弾は鹿児島市街に落下し、火災を惹き起こし、市民は逃げまどいます。

ただ、イギリス側も旗艦艦長や副長が即死、60余人が死傷の損害を被った為、4日にはイギリス艦隊は、戦闘を中止し鹿児島湾を退去します。

東郷はこの戦争において、砲弾を円いものとばかりと思っていたのが、イギリス艦隊から発射された弾は尖頭長身の強大なもので、その破壊力もまた到底及ぶところではないと知り、今更の如く、彼我の兵器が、どれだけ劣っているかを知って、かつ驚き、かつ慨嘆したのでした。

また、実戦に参加した先輩の口から、「いかに味方の気が逸っても、優秀な敵艦に対しては、いかんともすることはできなかった」と口惜しげに述懐するのを聞いて、東郷は

「海から来る敵は、海で防がなければならない。」

という真理を会得し、そのためには強力な海軍力を持たなければならないと痛感します。これが東郷が海軍を志す所以となります。


引用元:
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/togo-heihachiro.htm
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/07/post_149.html
http://www.nichiro-sensou.com/person/togo_heihachirou.html

inserted by FC2 system