談判決裂の結果、イギリス側も強硬手段を行使し、この日の暴風雨を衝いて両軍放火を交えるに到ります。薩摩隼人の意気も盛んで、海防の事も整備していたので、各砲撃から一斉に砲口を開いて応戦します。
この時、
東郷平八郎は17歳の初陣であり、彼は町田民部の手に属して旗本勢となり、初めは鶴丸城の二の丸を固めますが、その後は北西方に転戦して、警護の任に当ります。
また、後の海軍の父と呼ばれる
山本権兵衛は、この時年齢僅かに12歳であり、戦争に参加する事のできないのを無念としながらも、砲弾運びや雑役を手伝います。
しかしながら、イギリス艦が撃ちだすアームストロング砲の着発信管付きの炸裂尖頭弾は、想像もしなかった威力を示し、7月2日・3日の交戦で鹿児島城下を焼き全砲台を大破します。さらに敵弾は鹿児島市街に落下し、火災を惹き起こし、市民は逃げまどいます。
ただ、イギリス側も旗艦艦長や副長が即死、60余人が死傷の損害を被った為、4日にはイギリス艦隊は、戦闘を中止し鹿児島湾を退去します。
東郷はこの戦争において、砲弾を円いものとばかりと思っていたのが、イギリス艦隊から発射された弾は尖頭長身の強大なもので、その破壊力もまた到底及ぶところではないと知り、今更の如く、彼我の兵器が、どれだけ劣っているかを知って、かつ驚き、かつ慨嘆したのでした。
また、実戦に参加した先輩の口から、「いかに味方の気が逸っても、優秀な敵艦に対しては、いかんともすることはできなかった」と口惜しげに述懐するのを聞いて、東郷は
「海から来る敵は、海で防がなければならない。」
という真理を会得し、そのためには強力な海軍力を持たなければならないと痛感します。これが東郷が海軍を志す所以となります。
引用元:
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/togo-heihachiro.htm
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/07/post_149.html
http://www.nichiro-sensou.com/person/togo_heihachirou.html