異常快楽殺人:アルバート・フィッシュ



アルバート・ハミルトン・フィッシュはアメリカの連続殺人者、食人者。
「満月の狂人」(Moon Maniac)、「グレイマン」(Gray Man)、「ブルックリンの吸血鬼」(Brooklyn Vampire)などの異名で知られている。正確な数字は明らかではないが、多数の児童を暴行して殺害(1910年から1934年までに400人を殺したと自供)。肉を食べる目的で殺害された児童もいる。また、成人も殺害しているとされる。
なお、「満月の狂人(Moon Maniac)」という異名は、犯行が満月の日に行われたことが多かったことに因む。
アメリカ犯罪史上最悪の殺人鬼と呼ばれている。
身長165cm、体重58kg。




若年期・犯罪


ハミルトン・フィッシュとしてワシントンD.C.で生まれる。この家系では代々精神疾患者が多かった。5歳の時、父の死により孤児院に預けられ、ここで成長する。この孤児院では教鞭による指導が行われており、フィッシュはこれによって叩かれている。この鞭打ちが、フィッシュに快感をもたらした。尻をむき出しにして鞭で叩かれ、その最中に勃起した。この環境は、フィッシュにサドマゾ嗜好を与えたと考えられている。一方で、「反省するたびに鞭打ちを喰らうのだが、これは何の意味も無い。子供たちは、鞭で殴られるたびに悪くなっていった」とも語っている。彼はこの頃を振り返り、自分は鞭打ちを楽しみにする唯一の子供だったと、述懐している。1898年、9歳年下の女性と結婚し、6子を儲ける。フィッシュの実子は「フィッシュによる暴力などは無く、一般的な子供時代をすごした。ただ、時折自分を釘が打ち込まれた板で叩くように頼んだものだった」と語っている。後に「オイボレのスカンク野郎」「奴にしてやれることなど何もない」と罵ってもいる。妻との離婚後、家に遊びに来た子供に対して、鋲を打ちつけた板を渡して、自分の尻を叩くように言っている。子供から、どうしてこんなことをさせるのか問われると、フィッシュは、これによって名状しがたい感覚が体を貫く、キリストの受難を越えなければならない、と語っていた。フィッシュは自分の体が殴られるたびに喜び、涎を流して射精し、それを子供たちに見せ付けた。結婚19年目、フィッシュの妻が、近所に住む精神薄弱者と恋に落ち、さらには同居させて欲しいと言い出した。フィッシュは1度2人を別れさせるも彼女は再びその男と密会していたことで、フィッシュは妻を追いやった。彼はしばしば雑誌の恋人募集欄を読み、「板でも釘でも何でも使って私を叩いて欲しい。あなたの奴隷になりたいのです」というSM行為を懇願する手紙を、未亡人に送っていた。だが、返事は一通も来なかった。

塗装工であったフィッシュはその後全米を放浪する。著名な精神科医のフレデリック・ワーサム(Fredric Wertham)は、フィッシュの中にはサディズムとマゾヒズムの両方が強烈に同居していると診断している。報道によると主に性器の周辺に針を打ち込んで自慰行為に耽っていた。相手が見つからないうちは、自分で自分の体を痛めつける必要があった。フィッシュは、自分の体の到る所に針を突き刺すことにした。この習慣は、彼が逮捕されるまで止まらなかった。自身の陰嚢に針を突き刺したときの痛さは正気ではいられなかったと述べている。さらには自身の背中の内側や、骨盤に針を打ち込んであるとも述べている(実際に、彼のレントゲン写真では、陰嚢部分に細いものも太いものも曲がったものも合わせて29本もの針が見つかっている)。最初は刺してすぐに引き抜くが、深く刺せば刺すほど快感が強まるために、引き抜くのが困難になるほど深く刺すようになったという。また、彼はライターオイルをしみこませた綿球を自身の直腸に入れて火をつけ、身体の内部が焼けるような感覚に酔いしれたと言う。放浪時、23州に渡り殺人を行ったと公言しており、犠牲者の多くは主に黒人の貧しい家の出身だった。そして、貧しい黒人たちはフィッシュの犯罪に対して十分な行動ができる見込みが薄かった。彼は犠牲者の遺体を食人し、遺体ばかりではなく尿や、血液、排泄物までも食べた。彼自身はそれらの傾向は幼少期に受けた虐待により培われたと述べている。また、彼は「神」が自身に殺人による「伝道」を指示したと主張している。彼の殺人にはしばしば時間をかけた拷問も含まれていた。フィッシュが調理する際に快適な様に、子供の肉を柔らかくするために子供たちを縛り上げ、半分に切られ釘が打ち込んであるベルトで子供たちを鞭打ちした。彼はこのベルトを「地獄の器具」(instruments of hell)と呼んだ。

なお、フィッシュ自身の証言によると、爪の裏側に針を通そうとしたが、痛みを快楽に変えることができるフィッシュですら、そのあまりの痛さに途中で止めてしまったという。拷問の一つとして知られているこの方法が、いかに苦痛と激痛を伴うかがよく分かる事例である。


ある少女のケース


1928年5月28日、58歳のフィッシュはフランク・ハワードという偽名を名乗り、ニューヨーク州マンハッタンのある家族を訪ねた。彼は、この家族の18歳になる息子が出した、仕事募集広告に応じたのだった。この時、フィッシュはこの家族の10歳の娘に目をつけた。その後、両親を信頼させたフィッシュは、この娘を妹の孫の誕生パーティに連れて行くという名目で連れ出したが、彼女は二度と帰らなかった。

それから6年後の1934年11月、彼女の両親の元に匿名の手紙が届いた。この手紙を両親は警察に届け、フィッシュは逮捕されることとなる。手紙の内容の訳文を以下に載せる。
(注)手紙には、多数の誤字や文法の間違いが含まれている。また、手紙の中には具体的な名称が出てくる。そのため、訳文中では以下の書き換えを行った。少女の苗字:A、友人の乗る蒸気船B、蒸気船の船長で匿名者の友人:C、匿名者のニューヨーク在住当時の住居近くの区画:D、少女の家族の住所となる区画:E、少女の名前:F


親愛なるA婦人へ。1894年、私の友人で蒸気船Bの船長をしている船長Cは積荷を輸送していました。
彼らはサンフランシスコから香港まで航行しました。そこに着くと、彼は他の二人と共に陸に上がり、酒を飲みました。
彼らが戻った時には、船はなくなっていました。

当時、中国は飢饉に襲われていました。あらゆる種類の肉がポンドあたり1~3ドルの値段で売られていました。
そして、飢饉は重大であり、飢饉に苦しむ人を守る為12歳以下の子供たちは全て食べ物として売られていました。
14歳以下の少年、少女も街路では安全ではありませんでした。

どんな店でも、ステーキ肉やチョップ肉、シチュー肉を買うことができました。
裸の少年少女を連れてきて、欲しい部位を切り分けたのです。
少年少女の尻は体の中で一番美味しい部位で、子牛のカツレツとして高値で売られていました。
Cは長いことそこに滞在し、人肉の味わいを習得しました。

彼はニューヨークに戻ると、7歳と11歳の少年を盗みました。
彼らを自分の家に連れて行き、服を脱がし、裸にし、戸棚の中に縛り上げました。
それから、彼らが着用していた物を全て燃やしてしまいました。

彼は1日数回、彼らの肉を上質の柔らかな物にするため彼らを殴打しました。(彼らはひどく苦しみました。)
彼はまず11歳の少年を殺しました。なぜなら、彼のほうがより太ったお尻で、当然それにはより多くの肉が有ったからでした。
頭、骨と内臓を除いて彼の体の全ての部分は調理され、食べられてしまいました。
(彼のお尻は)オーブンでローストにされ、ボイルにしたり、焼いたり、油で揚げたり、煮込んだりと彼は調理されました。
次に小さなほうの少年も同じようにされました。

当時私はD右側の近くに住んでいました。
彼はしばしば私にどれだけ人肉がうまいかを語り、私もそれを味わってみたくなっていました。

1928年6月3日の日曜日に、購入したカテージチーズとイチゴを持って、私は貴方の住所Eを訪れました。
私はその時昼食を取っていました。すると、Fは私のひざに乗り、私にキスをしました。私は彼女を食べることを決めました。
彼女をパーティに連れて行くという口実に、あなたは承諾し、彼女は出かけられました。

私が既に選出しておいた、ウエストチェスターにある空き家へ連れて行きました。
そこに着くと、私は彼女に外で待っているようにと言いました。彼女は野の花を取っていました。
私は2階へ行き、すべての着衣を脱ぎました。衣服を脱がないと、それに彼女の血が付いてしまうだろうことが分かっていたからです。
全て準備が終わると、窓際まで行き、彼女を呼びました。その時は、彼女が部屋に入ってくるまで、戸棚の中に隠れていました。
彼女は裸の私を見ると、泣き出し、階段を駆け下りようとしました。
私は彼女を鷲づかみにしました。

すると、彼女はお母さんに言いつけると言って来ました。
まず、彼女を裸にしました。すると、彼女は蹴ったり、噛んだり、引っかいたりと、なんとも・・・。
私は彼女を絞殺しました。

それから、彼女を小さくコマ切りにし、そのようにして私の肉を私の部屋に運び入れました。
調理し、食べました。オーブンで焼いた彼女の小さなお尻の、なんて甘美で柔らかだったことでしょうか。
彼女の全部を食べるのに9日間要しました。私が望むなら彼女をレイプできましたが、それは行いませんでした。
彼女は処女のまま天に召されたのです。

※殺して切断した少女の体をシチューにして食べたフィッシュは、「うまかった」と語っている。


裁判と死刑執行


1935年3月11日に開かれた公判で、フレデリック・ワーザム博士は精神異常としてフィッシュを弁護した。フィッシュは、子供を殺す旨を神から啓示で聞いたと主張した。幾人かの精神科医は糞性愛、尿性愛、ペドフィリア、マゾヒズムなどの多くの彼の持つフェティシズムを証人席で語っている。しかし、それらの活動は必ずしも精神異常を意味するかどうか意見が分かれた。被告側主任鑑定人であるワーサム博士は、フィッシュは精神異常であるときっぱり言い切った。博士は弁論で、フィッシュの歪んだ倒錯と性的異常は、彼自身の気質ではなく、不幸な環境によって作り上げられたものであって、彼も被害者であると主張した。フィッシュの倒錯性と異常性を考慮した博士は、フィッシュを死刑にさせたくないと考えた。だが、世論の多くはフィッシュの死刑を望んでいた。公判は10日間で終わり、陪審員は彼は正気で有罪との評決を下した。裁判官は、フィッシュに死刑判決を下した。

1936年1月16日、ニューヨーク州オッシニングにあるシンシン刑務所(Sing Sing)にて電気椅子による死刑執行が行われた。死刑執行人により電気椅子に皮ひもで固定されている際にも、彼は電気処刑の執行を「一生に一度しか味わえない、最高のスリル」と語ったと、幾らかの人々に信じられている。また、フィッシュは死刑を切望していたと考える人々がいる一方で、彼は死刑を望んでいなかったと考える人々もいる。最期の言葉は「なぜ、私がここにいるか分からない」だったという。最初の電衝では彼を殺すことは出来ず、2度目の電撃により彼を死に至らしめたと報じられている。また、少数の記事は、彼の体内にある29本もの針が短絡を起こしたためにこのようなことが起こったと報じている。しかしながら、これらの報道は一般的に間違っているものとして考えられている。それは通例で死刑執行の際は警戒のため2回の電撃が与えられ、その様な認識が報道側になかったのではないかと考えられているためである。彼の遺体はシンシン刑務所に埋葬された。



アルバート・フィッシュ



彼は鑑定医ですら「まっさきに子供を預けたくなるような」と形容したほどの穏やかな容貌の持ち主だった。だがその皮膚の一枚下では、狂気が煮えたぎっていた。
1928年5月、マンハッタンはチェルシー通りにあるアパートのドアを、一人の男がノックした。
アパートの住人であるバッド家の家人が出てみると、そこにはいかにも紳士然とした老人が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
老紳士はフランク・ハワードと名乗り、新聞に出ていた求職広告を見てやって来た、と丁重に述べた。
求職広告を出したのはバッド家の長男である。ドアマンをしている父の収入だけでは彼らの生活は苦しく、彼はなんでもして稼ぐつもりだった。そんな彼にハワード老人は、
「真面目に働くなら、週15ドル払ってもいい」と言い、家人はそれに素直に喜んだ。
翌々週、ハワードはふたたびバッド家を訪れた。手土産に上等なチーズを携え、金のかかった品のいい身なりをした、温厚な紳士。それが誰の目にも映ったハワード老人の姿であった。
そんな彼に、10歳になる娘グレースをパーティに連れていってあげたいのだがどうか、と持ちかけられて、バッド家の人々が断るはずはなかった。ハワード老の話によるとコロンバス通り137番地に住む彼の妹の家で、盛大なバースデイ・パーティが行なわれるのだという。
両親はグレースに、礼拝へ行くための一張羅の白いドレスを着せ、出来る限りのお洒落をさせて送り出した。
老人はグレースの小さな手を握り、彼らに一礼して、出て行った。
しかしグレースは翌朝になっても戻ってはこなかったのである。
両親はハワードの言った妹の家の住所へ娘を探しに行った。しかしコロンバス通りは109番地までしかないことがわかり、彼らは慌てて警察に駆け込むことになる。
しかしグレースの行方はおろか、ハワード老の身元さえ、誰もその後杳として掴めなかった。
真実が明らかになるまでに、それから6年を彼らは待たなければならない。



1934年11月、グレース・バッドの母親は署名のない一通の手紙を受け取った。
その内容は、以下のようなものであった。

「わたしには船乗りの友人がおり、彼には人肉嗜食のくせがありました。つね日頃彼の話を聞いては実行してみたい、と思っていたわたしでしたが、あの日お宅で昼食をご馳走になった際、膝の上に乗ってきたお嬢さんの笑顔を見て決心したのです。この子を食べてみよう、と……」

手紙はなおもつづいた。

「わたしの家に訪れた彼女は喜んで花壇の花を摘みはじめました。わたしは全裸になって彼女を呼びました。最初はにこにこして部屋に入ってきた彼女でしたが、わたしを見ると狂ったように叫びはじめたので、仕方なく首を絞めました。
 それからわたしは彼女をこまかく切り分け、しばらくの間彼女を食べて暮らしました。お宅のグレースさんの肉は柔らかく甘く、オーブンでとろとろと焼き上げると最高の味がすることをご存知でしたでしょうか。お嬢さんは9日間かかってわたしのおなかの中に消えたのです」

そして、まるで両親を安心させるかのような丁重さで、

「どうかご両親においては失望なさることにないように。わたしは彼女を犯しませんでした。彼女は純潔のまま、神に召されたのです――」

グレースの母親は悲鳴をあげ、卒倒した。
手紙の投函場所と、筆跡、封筒の出所から投函者はただちに知れた。3週間後、刑事はその容疑者アルバート・フィッシュのドアをノックし、中に入った。
フィッシュはテーブルに座って、ちいさなカップで紅茶を飲んでいた。
「まるで『無害』という言葉が服を着て座っているようだった」とその刑事はのちに語っている。
刑事が彼に任意同行を求めると、小柄な老人はわずかに身じろぎした――ように見えた。そのとき刑事が瞬時に身をかわしていなければ、剃刀の刃は確実に彼の頚動脈を裂いていただろう。
刑事は慌てて老人の手をねじりあげ、剃刀を取り上げた。
老人は微笑んだ。

「わかった。きみの勝ちだ。行こうか」

フィッシュの自供により、グレースの死体は彼の以前の住居のコテージから発見された。完全に、白骨化していた。


アルバート・フィッシュは5歳のとき、父の死によって孤児となり、施設にあずけられた。
そこでの戒律は厳しいもので、些細なことで子供たちは鞭でぶたれた。
のちにフィッシュは「惨めさと苦痛は、犯罪のよい肥やしになる」と捜査員に語っているが、彼はここで鞭打ちの苦痛と屈辱を、性的な快感にすり替えるすべをすでに身につけている。
虐待を受けたが、ティーンエイジャーで自殺もせず生き延びた者を、アメリカでは「生存者(サヴァイヴァー)」と呼んでいる。意外なことに、そのうちには多重人格者も含まれる。
彼らは生命力が強いのである。だから、虐待の肩代わりをさせるべく「別の人格」を体内から排出してでも、生きのびようとする。脳が死に屈服することを拒み、逃避というメカニズムを発動させるのだ。
そしてフィッシュの場合、それは「苦痛を快感に変換すること」だった。
また、彼の生き別れの兄は海軍を除隊したあと、たまに施設を訪れたが、そのたびに幼い彼にエロ写真を与えたり、軍隊で見聞きした「人肉食い」のグロテスクな話をして聞かせた。
さらに12歳のとき、彼は年長の電報配達夫と性的な関係を持った。相手も未成年ではあったものの、それはいささか性的虐待に近いものであった。だがフィッシュはすぐにそれに惑溺した。
その青年は、すでにマゾヒストであったフィッシュに、相互サディズムのやり方と、スカトロジーを混じえた性行為を教えこんだ。この関係は数年つづいた。


しかし、14,5歳になるまでフィッシュがまともな性的環境に一度も置かれたことがないというのは、やはり当時の社会状況をさしひいてさえも驚くべきことである。だが彼はこれらのすべてを「受け入れ、順応」することで適応していった。フィッシュは精神的にひどく、タフだったのだ。


だが彼にも最後のチャンスが――まともな愛情をはぐくむ人間になれるかもしれない最後の機会が訪れた。結婚である。彼は塗装工の仕事をしながら、この妻との間に3人の子供をもうけた。
が、結婚19年目にしてこの夫婦関係は破綻する。きっかけは妻の浮気であった。
彼女は近所の精神薄弱の男と駆け落ちし、数日後帰ってきた。それだけならまだしも、

「このひとと一緒にここで住ませてほしいんだけど」
と彼女は言ったのだ。

済んだことは水に流してやってもいい、だがそれは無理だ、とフィッシュは至極まっとうなことを妻に告げた。妻はしぶしぶながらそれに同意し、愛人と別れると約束した。
が数日後、フィッシュは信じられない光景を目にすることになる。追い出したはずの精薄の男がまだ彼の家にいて、彼の妻と抱きあっていたのだ。
じつは妻は彼に内緒で、その低脳の従順な愛人を屋根裏部屋に住まわせ、こっそり食事を運びながら情事にふけっていたのである。
この事実はフィッシュを打ちのめした。その上2人は駆け落ち費用としてフィッシュ家にあった家財道具のすべてを持ち出し、売り払って出ていった。
彼のもともと不安定だった精神が、完全に均衡を失いはじめるのは、この瞬間からである。

だが殺人をはじめるのは、もっと後の話だ。
彼は例の電報配達夫以来の「理想の恋人」を見つけることはとうとうできなかった。その代わり、彼は「代償行為」でその隙間をただちに埋めた。
フィッシュは自分で自分を痛めつけることを好んだ。釘を植えたパドルで自分の全身を叩いたり、真っ赤に焼けた金梃子を押し付けたりもした。彼はあいかわらず塗装工だったが、ペンキを塗っている間はオーバーオールの下になにも着けず、幼い少年が通ると「前をはだけて見せる」などという典型的な露出行為にも励んでいたようだ。
また、家に遊びに来た息子の友達に、鋲を打ちつけた板を手渡し、ズボンを脱いで四つんばいになると、その裸の尻を血が出るまで殴ってもらった。しかし長ずるにつれ息子たちはこれを嫌がったので、彼はまた自傷行為に戻った。
彼のあみだした自傷行為の中でもっとも有名なものは、陰嚢に針を突き刺すこと(彼の骨盤周辺を撮ったレントゲンは、彼を紹介した著作にはたいてい掲載されている。そこには錆びた針が太いのも細いのも、折れたのも腐食しかけたのも混じって、27本映っている)と、直腸にアルコールをひたした綿布を詰め込み、火をつけて、体内が燃える感覚に身悶えることだった。

彼はグレースをたしかに犯さなかったのかもしれない(発見当時はすでに白骨化されていたため確認は不可能だった)、しかしその後の犯行はすべて少年少女に対する凌辱殺人である。
彼の対象はなぜつねに子供でなくてはならなかったのか。純粋に小児愛好者だったのか、それとも無害な弱者だったから狙ったのか、それとも惨めな自分自身の幼少期をそこに重ねあわせ、抹殺することを望んでいたのか?

ただ、フィッシュ自身はこう言っている。
「いついかなるときでも、私は子供を憎いと思ったことは一度もない」と。


彼は自分の幼児殺害が「彼らを貧しい悲惨な境遇から、将来出会うであろう人生の恐怖から救ってやる崇高な行為」であると信じていた、と述べている。
だがそう真顔で言い切る反面、彼は少年を去勢することに性的快感を感じ、彼らを解体しながら射精し、グレース・バッドに至っては、切断した耳と鼻を新聞紙に包んで常時持ち歩き、それを電車の中などで尻に敷いて興奮したことも認めている。
フィッシュは警察で、400人の子供を殺したと供述した。この数字にはなんの根拠もなく、誇張ととらえるよりほかない。だが少なくとも数十人の子供を殺したことはあきらかで、性的暴行を加えた子供の数は100人をくだらないはずだった。
彼の犯行と確定しているものはウィリアム・ギャフニーという4歳の少年を拷問の上殺害した事件と、8歳のフランシス・マクドネルを同じく殺害した事件、並びにグレース・バッド事件のみである。
が、1933年と34年には地下室で拷問を受け絞殺された子供達の死体が発見されており、前年の32年には、フィッシュが塗装を請け負っていた地区で16歳の少女が殺され、解体されるという事件も起こっている。そのほかにも、はっきりと立件はできなかったがきわめて疑わしい、とされている事件は数多い。
彼はいつも貧しい子供達を狙った。食事か金銭で彼らを釣り、監禁して犯し、拷問した。フィッシュはどうしても犠牲者の悲鳴を聞きたかったので、いつも猿轡を噛ませずに彼らを刺し、切り刻み、突き貫いて甘美な快感に浸った。


彼が犯行をおかしていた期間は約25年間だが、その間軽犯罪以外の罪に問われたことは一度もない。穏やかな容貌も上品な立ち居ふるまいも、すべてが彼にとって有利だった。
犯行はあまりに歴然としていたので、裁判の論点はただひとつ、彼が狂気であるかどうかだけだった。
フィッシュの強靭な精神は自殺を拒み、すべての苦痛を快楽としてとられることで永らえてきた。だがその代償として精神の均衡を失っているのは誰の目にも明らかだった。
彼の精神鑑定を任された当時のアメリカ精神医学の権威、ワーザム博士は彼を狂気であると断定し、電気椅子ではなく病院へ収容すべきだと主張した。
また彼は法廷で、こうも言っている。
「ここにいる男は治療も矯正もできないばかりか、“罰すること”すらできないのです。――なぜなら彼は死刑の苦痛と恐怖でさえ快楽ととらえ、それを毎日愉しみに待ち受けているのですから」。
しかし、陪審員はフィッシュを正常と認め、彼を第一級殺人で有罪にした。



記者に囲まれたフィッシュは、電気椅子送りになることについて、

「最高のスリルだ。――いままで試したことのない、唯一最大のスリルだ」

と述べた。これはキュルテンの「自分の首が切断されるときの、その血の噴き出る音を是非とも聞きたい」という言に共通するところのある台詞だと言えよう。

彼は65歳という高齢ながら、1936年、電気椅子に座らされた。
アルバート・フィッシュは最期の食事としてTボーンステーキを残さずたいらげ、処刑場へ向かった。
この処刑において、彼は自分の足を縛りつけるのをいそいそと手伝っただとか、体内の針のせいで電極がショートし機械が止まっただとか、あるいはその針のせいで電流が「流れすぎて」、目から青い火花が噴き出したなどという逸話が数多く残されているが、そのすべてがデマである。
彼はふつうの死刑囚とまったく同じように、3000ボルトの電流でたやすく絶命した。

彼の最期の言葉は、
「なんでまた私は、こんなとこにいるのかねぇ」
というものだった、という。

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