北九州監禁殺人事件(きたきゅうしゅうかんきんさつじんじけん)は、2002年(平成14年)3月に北九州市小倉北区で発覚した監禁、殺人事件である。


▼概要
人の弱みにつけこんで監禁をして金を巻き上げ、拷問と虐待によってマインドコントロール下に置き、お互いの不満をぶちまけさせて相互不信を起こして逆らえなくし、被害者同士で虐待をさせることで相互不信を一層深くさせ、自分の手は汚さずに用済みとなった人間を殺害して死体処理を行わせた(裁判では6人の殺害と1人の傷害致死)。世界的にもほとんど類をみない残虐な事件と言える。あまりの残虐さに、第一審で検察側は「鬼畜の所業」と容疑者男女を厳しく非難した。

非常な残虐性・悪質性にもかかわらず、事件に報道規制がかけられたとされ、事件の知名度は高くない。当初は地元の報道機関を中心に報道をしていたが、内容があまりに残虐であるため途中から報道機関が自主規制し、全国の報道機関での集中報道には結びつかなかったともいわれる。


▼人物
便宜上加害者と被害者としたが、状況に応じて加害者Yは被害者になったり、被害者が加害者になったりした。

加害者

松永太 - 1961年4月28日生。北九州市小倉北区出身。両親は畳屋。7歳の時に父が実家の布団販売業を引き継ぐため柳川市に転居。高校卒業数年後に父の店を受け継ぎ有限会社化のちに株式会社にする。社名ワールド。1992年に詐欺罪で指名手配されるまで詐欺商法を繰り返す。1992年に前妻と離婚。病的な嘘つきで自意識が強く目立ちたがり屋。饒舌でいくつもの顔を持ち、エリートを演じる傾向がある。礼儀正しく愛想が良いが、猜疑心・嫉妬心が強い(アフェクションレスキャラクターの傾向) 。異常なまでに執念深く嗜虐的。神経質で臆病な面もあるが虚勢を張る。

緒方純子 - 1962年2月25日生。久留米市出身。短大を出て幼稚園教諭になる。従順で没個性的。法廷では虐待の過程で松永から喉を攻撃されたため、40代ながら老婆のような声になっていた。

被害者

A - 2002年に脱出した少女。XとYに虐待されていた。
B - 元不動産会社勤務。Aの父。1番目に死亡。
C - 農協副理事長。Yの父。心配性で世間体を気にする性格。2番目に死亡。
D - 主婦。Yの母。3番目に死亡。
E - 歯科衛生士。Yの妹。4番目に死亡。
F - 農協関連団体職員。Eの夫で、Yからみて義弟にあたる。Yの家族の中で唯一Yと血のつながりがない。1986年にEと結婚したが、家を出ていた義姉Yとは事件まで面識はなく、「トラブルを起こす義姉」と見ていた。5番目に死亡。
G - 小学生。EとFの長女。Yからみて姪にあたる。7番目に死亡。
H - 保育園児。EとFの長男でGの弟。Yからみて甥にあたる。家族の中で唯一虐待を受けていなかった。6番目に死亡。


▼事件

Y虐待事件



父娘二人監禁事件

容疑者の男Xと女Yは、布団販売業を営んでいたが、二束三文の布団を高値で販売する詐欺的な商法や客を脅して無理やり布団を買わせる暴力的な商法が警察の知るところとなり、詐欺罪と恐喝罪で警察に指名手配された。

そこで、XとYはかつて架空の新会社設立をもちかけたXの知人Bとその娘Aがいる北九州市内に潜伏するようになる。XはBの些細な軽犯罪の過去を知り、弱みにつけこみ虐待と拷問をするようになる。1996年2月、XとYは、電気ショックを与えるなどの拷問を繰り返したり、食事を満足に与えないなどBを虐待して衰弱死させた(第1の殺人)。Xは、YとAに遺体の解体を命じ、Bの遺体は海に投じられた。

XとYは、Aに度々、虐待を繰り返し、監視下に置いた。

女性監禁事件


XがAを介して知り合った36歳の女性に対し、京大卒の河合塾講師を装って結婚を約束。この女性は3歳の次女を連れてXやYと同居を始める。

1996年12月30日から1997年3月16日にかけ、XとYは女性(36歳)と次女(当時3歳)を同市小倉南区のアパート二階の四畳半和室に閉じこめ、連日暴行した。

3月16日未明、女性はすきを見て部屋の窓から路上に飛び降り脱出した。

女性の逃亡後、Xらは同居していたアパートをすぐに引き払って姿をくらました。次女は女性の前夫宅の玄関前に置き去りにされた。

女性はその後、精神科に長期入院した。

一家六人監禁事件


B殺害後にXは金を稼がせるためにYに大分県湯布院町でホステスとして働かせたが、YがXの元に帰ってこなくなると、XはYがBを殺したことを口実に、身内に殺人犯がいることを露見すると世間体が悪くなることを盾にYの父母および妹から逃亡資金などとして金品をまきあげ、金が足らなくなると消費者金融などから金を借りさせるようにし、毎日のようにXが住むマンションに呼び寄せた。また、XはYを自分の下に置くために、Yと度々会っていた妹Eを通じてX自身の自殺・葬儀を捏造することで、Yを呼び戻して再び支配下に置いた。

やがて、Yの父母および妹一家が金を借りられなくなると、毎日のように呼び寄せていたXはYの父母および妹一家を最終的に監禁状態にし、拷問によって自分たちの言うことを聞かせ、さらに個々の弱みにつけこんで互いが争うように疑心暗鬼に陥らせた。このようにしてYの家族とAはXの支配下に置かれることになった。

1997年12月、Xは、Yに命じて、その父親Cに通電させ、Cは死亡した(第2の殺人。ただし、裁判では傷害致死と認定)。

Xは、Yとその一族に遺体の解体を命じた。さらに度重なる通電によって奇声を発するようになったYの母親Dを殺害するようY、その妹E、Eの夫Fに命じ、1998年1月、Yらに体を押えつけさせた上でFに絞殺させた(第3の殺人)。

さらに、度重なる通電によって耳が遠くなったEに対して、Xは「おかしくなった」などと因縁をつけ、FとYの姪G(=Eの娘)に殺害を命じ、1998年2月、Yらに体を押えつけさせた上でFに絞殺させた(第4の殺人)。

度重なる通電と食事制限でFが衰弱すると、Xは浴室にFを閉じ込めて、1998年4月、衰弱死させた(第5の殺人)。

1998年5月、大人たちが全員死亡すると、GはXに対して、「このことは誰にも言いません。弟Hにも言わせません」として、自宅への帰宅を願い出ている。それに対し、Xは「死体をバラバラにしているから、警察に捕まっちゃうよね。Hが何もしゃべらなければいいけど、そうはいかないんじゃないかな。Hは可哀相だから、お母さん(E)のところへ行かせてやる?」と暗にHを殺すことを命じた。GはHに「お母さん(E)のところに連れて行ってあげる」とうそをつき、Yとともに、Hを殺した(第6の殺人)。Gは、大人たちの事情もわからないまま事件に巻き込まれ、殺害や遺体の解体を手伝わされた。

その後、Xは「あいつは口を割りそうだから処分しなきゃいけない」とYに殺害をもちかけ、Gに満足な食事を与えず通電を繰り返し、翌6月にはYとAにGを絞殺させた。そのとき、Gは静かに横たわり、首を絞めやすいように首を持ち上げたという(第7の殺人)。

少女逃亡失敗監禁事件


2002年1月30日に少女AがXの隙をみて 北九州に住む祖父母の家へ逃亡。成功して半月ほど祖父母と一緒に暮らし アルバイト先を決めたり、国民健康保険に加入したりと生活の基盤を築き始めていた。

しかし、2月14日にXの交際相手である伯母のM(Bの姉にあたる)よりXに行方がばれ、強引に連れ戻される。

その後、少女AはXとYから体に電気を流したり、爪をペンチではがさせたりするなどの虐待を受けた。

発覚


2002年3月6日、少女A(当時17歳)が祖父の家に助けを求めてきたことから事件が発覚した。翌3月7日、XとYが逮捕された。XとYは、容疑や名前も含めて完全黙秘を続け、身分証は偽造されたものばかりであったため、当初は身元が不明であったが、Yが所持していた写真集をきっかけに判明した。

当初はXとYの2人によるAへの傷害と監禁事件と思われた。その後、Aの証言により、XとYは、Aの父親B(当時34歳)の知り合いで、5~6年前から4人で暮らすようになったが、暮らし始めて約1年後にBが行方不明になり、その後は3人で暮らしていたとされた。

後日、別の場所で、Aが世話をさせられていた4人の子どもが発見された。2人については、DNA鑑定でXとYの子供と判明した。残り2人は双子で、別の女性の家庭の不和につけ込んで預かった子供であり、女性から約2500万円を貢がせていた。

数日後、Aが「BはXとYに殺された」と証言したことから、事件の解明は大きく動いた。さらにAは、Yの家族6人が殺害され、遺体は解体されて海などにばらまかれたと証言した。

警察は、Aの証言を元に「殺害現場と思われる場所の配管」まで切り出し、DNA鑑定を行ったが、Xが配管や浴室のタイルを交換するなどの証拠隠滅工作をしたことや、7人の遺体がすでに完全に消滅しているために、物的証拠が何もないという状態であった。

最後はYが自白したことで、改めて事件の概要が判明した。脅迫や虐待をされる中で被害者たちが作成させられた「事実確認書」、物的証拠はなかったが、AとYの二人の供述から解体に使われたノコギリやミキサーを購入した時期を示すレシート、死体解体を不審に思ったマンション住人の証言などの間接証拠が集められた。


▼手法
Xがこの事件で用いた手法は以下の通りである。

弱み
Xはまず対象者に言葉巧みに近づいて信用させる一方で、何かしらの弱みを握る。

そして、Xは相手の弱みに乗じて対象者に自分に金を持ってくることを要求させた。Xはこのような対象者を「金主」と呼んでいた。

虐待
相手の弱みを握ったXは被害者に対して様々な暴力・虐待を強いた。

特に裸にした電気コードの先にクリップをつけ身体に挟んで瞬間的に電流を流す「通電」という方法が主に用いられた。激痛が走り目の前は真っ白になり患部は焼けどをおこしひどい時には水ぶくれになる。

元々はXが経営していた従業員がお遊びで始めたことがきっかけであるが、後にこれはXが相手を支配するのに非常に重要なツールとなった。

Xは通電について、被害者らへのしつけが目的の「秩序型通電」とXが腹を立てた時の「激昴型通電」の二種類であったとしている。

なお、虐待について5歳男児であるHのみは免れたが、10歳女児であるGを含めた他の被害者全員が対象となった。

書類
Xは「弱み」「虐待」を盾に被害者に「事実確認書」などの書類を作らせた。主に以下のようなものがあった。

被害者が将来において書類の中身を実行するもの

相手に無理難題を実行させることを約束させるもので、相手に書類の中身について実行させなければならないと思わせるように仕向けた。

被害者が過去の弱みを告白するもの

署名したことを理由に書類の中身が真実でなくても真実であるように思い込ませて、さらなる弱みを握ったりX自身の責任を逃れるように仕向けた。

マインドコントロール
Xは相手の「弱み」「虐待」「書類」を盾に、「食事」「排泄」「睡眠」など様々な生活制限を強いた。違反した場合は、さらなる虐待を強いた。これらによって被害者を精神的に追い詰めた。

さらにXは自分を頂点として被害者を序列化した。通電される者は下位の人間であった。Xを頂点とする社会においてどんなに些細な理由でも被害者に通電された。また序列の高い被害者が下位の被害者を通電させるように仕向け、逆らったら下位に落とされて通電されるようにした。

またXは、被害者が別の被害者の悪口や不満をしゃべれば序列の下位から免れるように仕向け、被害者たちの悪口を聞き出した。Xがそれらの悪口や不満を当事者である被害者に吹聴させることによって、被害者たちはお互いを憎しみ合うように仕向けられた。またXの指示で上位の被害者が下位の被害者に対して通電させた。そのため、被害者たちの個々人が孤立化してしまい、一致団結してXに逆らうということが無くなった。

またこれらのマインドコントロールによって、被害者が親族である他の被害者を攻撃することに抵抗感を無くさせ、Xは自らの手を汚さずに被害者に殺人や死体解体をさせる土壌を作った。


▼殺人・死体解剖
Xは直接実行をしなかったが、Yらへのマインドコントロールを通じて、以下のことを実行した。

殺人
Xは金を巻き上げられなくなって用済みになると、自分の手を汚さずに支配している人間を誘導して殺害をさせるよう仕向けた。

ただし、Xは明確な言葉で殺害を命じなかった。しかし、Xは被害者らに問題処理の決断を迫る一方で殺害以外の選択肢をことごとく却下して、最終的に被害者らに殺人を選択させるように仕向けさせた。

Xは全て被害者が直接着手する様仕向けた。

上記の経緯から殺害の実行行為に着手せず明確に殺人を命じなかったXを殺人罪で裁くことが出来るのかが裁判で注目された。

死体処理
遺体は浴室でのこぎりとミキサーで分解し、鍋で煮込んで解体処理させるようにアイディアを出し、被害者に選択させ、死体解体の進捗状況が遅いと虐待で急かすように仕向けた。解体された遺体を海や公衆便所などに投棄した。

また水道管や浴室のタイルなどは交換して、証拠を隠滅した。そのため、遺骨や血痕などの殺害の直接証拠が全く無く、捜査機関はAおよびYの証言に依拠せざるを得なかった。

元幼稚園教諭に児童を殺害や死体処理をさせたり、元警察官に殺害や死体処理をさせ、さらに10歳の児童にまで自分の祖父母や両親の殺害や遺体解体に参加させ、さらには姉に弟を殺させ、残った姉も容赦なく殺すといった行為は前代未聞である。第一審判決では、この点について「見逃せないのは、児童が犯行の巻き添えや痛ましい犠牲になっていることである。これらは犯行の残忍で冷酷な側面を如実に示している」と指摘している。

また生存者であるAも死体処理に加担し、また1人の殺害に直接加担したことにはなる(なおAは当時13歳だったため、14歳未満の刑事責任を問うことを禁じた少年法の規定により刑事責任には問われない)。


▼その他被害者
これらの事件は被害届が出ていなかったり、嫌疑不十分だったりするため、刑事訴訟となっていない。

  • ワールド(Xが経営していた会社)の元従業員男性 - 詐欺罪の指名手配で逃亡中だったXに同行。金の工面をしていたが虐待に耐えかね逃走。

  • Xの同窓生女性 - 結婚を餌に1180万円を奪われる。1994年3月に大分県の別府湾に飛び込み自殺(他殺説あり)。1993年9月に当時1歳だった女性の子供も不自然な事故死をしている。


    ▼裁判
    2005年9月28日、福岡地方裁判所小倉支部において第一審判決がくだされた。裁判所は、Xの支配下に置かれてお互いを憎み合っていたYとAの証言がほとんど一致し、Yは自分にとって不利なことも進んで証言していること、一方、無罪を主張するXの証言には一貫性がないことなどから、XとYがB、C、D、E、F、H、Gの計7人を死に至らしめたと認定した。

    ただし、Cに関しては「蘇生させようとした」ことから殺意はみとめられないとして「傷害致死」とし、それ以外を「殺人」と認定した。

    裁判所は、容疑者のXとYを「甚だしい人命無視の態度には戦慄(せんりつ)を覚える」「残酷、非道で血も涙も感じられない」「悪質さが突出し、犯罪史上まれに見る凶悪事件」と厳しく非難し、死刑の判決を下した。

    XとYは控訴した。2007年9月26日、に福岡高裁で判決が下された。Xの死刑判決が維持された。一方でYについてはFが元警察官でありながら解体作業や殺害などに加担したことからXによる通電などの虐待が被害者の人格に影響を与えていたことを考慮し、Xに暴力支配を受けており従属的だったと指摘し、捜査段階での自白や公判での反省の態度も考慮されて無期懲役に減刑された。Xはこれに不服を唱え即座に上告、Yについては「量刑不当」として検察側が上告した。


    引用元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%9B%A3%E7%A6%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6


    ◆北九州一家監禁殺人事件(もっと詳しい)


     2002年3月6日、17歳の少女が小倉北区にあるマンションの一室から逃げ出し、祖父母宅へ助けを求めに駆け込んだ。
     少女は怯えながら、
    「お父さんが殺された。私もずっと監禁されていた」
     と語った。少女の右足の親指は生爪が剥がれており、
    「ペンチを渡されて、『自分で爪を剥げ』と言われたので剥がした」
     とのことであった。
     それまでの経緯などもあり、祖父は少女をともなって門司警察署へ監禁の被害届を出しに行くことになる。しかし彼女が供述した事実は監禁致傷にとどまらず、連続殺人――それも類を見ないほどの一家殲滅とも言える大量殺人であった。
     連絡を受けて現れた小倉北署員がこれ以後事情聴取を行なうことになり、そうして少しずつ、この事件の全貌が語られていくことになる。


     これら大量殺人の主犯である松永太は、1961年4月に小倉北区で生まれた。
     父親は畳屋であったが、松永が7つの時、実父(松永にしてみれば祖父)の布団販売業を継ぐため一家で福岡県柳川市へ引っ越した。松永の生い立ちについては特に語られるべきことがないのか、あまり情報がない。だが経済的に不自由はなく、母親と祖母にべたべたに甘やかされ、ほとんど叱られることのない幼少期を過ごしたようだ。
     高校2年の時、松永は家出少女を拾って自宅へ入れたことで退学となり、公立から私立の男子校へ転校。2年まで在学していた公立高校には、のちのち彼の『相棒』ともなる緒方純子も在籍していた。
     高校卒業後、松永は父親の営む布団販売業を手伝うかたわら、19歳で結婚し翌年には子供をもうけている。
     さらにこの年、布団販売業の有限会社を設立し、代表取締役としておさまった。だが、中身は粗悪品を訪問販売によって高値で売りつける詐欺まがいの会社であった。
     松永は契約のとれない社員に暴力をふるって虐待し、信販会社のセンター長に「接待」と称して昼間から酒を飲ませ、その姿を写真に撮って脅した。これにより信販契約の審査を甘くさせ、立替払金を着服するなどのメリットを狙ったのである。
     なお、のちの一家殺害事件にも使われた「通電リンチ」(電気コードの電線を金属のクリップに付け、腕などにテープで固定して通電する)は、この頃からすでに社員への虐待方法として使用されている。

     対する緒方純子は、1962年2月に久留米市に生まれた。
     兼業農家で土地をかなり所有していた緒方家は由緒もあり、地元の名士とも言うべき存在であったようだ。純子は村会議員の祖父や兼業で会社員の父のもと、何不自由なく育っている。
     そんな彼女のもとへ松永から連絡があったのは、短大を卒業し保育士となって半年ほど経った頃のことであった。
    「俺、フトシちゃん。覚えてる?」
     と、高校時代ほとんど面識のなかった純子に、松永は最初から馴れ馴れしかったようである。だが目的は彼女の卒業アルバムだったらしく、松永は卒業写真を見て気に入った女性たちに電話をかけまくっていたという。
     そのかたわら、彼は純子に色気を出すのも忘れなかった。
     「会社の業績は順調で、しかも芸能界からのスカウト話も来ている」と松永は嘘を吹きまくった。そしてすぐに彼女と関係を持つに到る。
     しかし妻子ある男との交際は、じきに純子の実家にバレた。松永は緒方家を訪れ、
    「妻子とは別れます。緒方家の婿養子になります」
     としおらしく宣言し、その場で『婚約確認書』なるものを提出した。
     俗に「口約束」と言うが、その反面どんないい加減な話でも書面にされた途端、人はなぜかそれに信憑性があるような気になってしまうようだ。そしてこの手の無意味な書面を作って嘘に説得力を持たせるのは、松永のもっとも得意とするところだった。
     松永は純子に「莫大な利益を上げている会社だが、お前の婿養子になって緒方家を継ぐからにはつぶさなくちゃいけない。芸能界の話も、残念だがお前のために諦める」と言って、彼女に自責の念を抱かせた。
     純子の母はこの『婚約確認書』なるものをあまり信用しなかったようだが、この会見によって父の誉(たかしげ)さんはすっかり松永が気に入ってしまったようであった。
     松永はこの時、わずか23歳である。その年齢にしてこの人心掌握の上手さ、口車の巧みさは珍しいと言えよう。
     彼のついた嘘は上記の通り、たわいないと言えるものばかりである。しかし彼の周囲の人物――特に緒方家の人々――はまるで糸に操られるようにして、いともたやすくその嘘に踊らされていった。
     この一種のカリスマ性、マインドコントロールのたくみさ、並びに良心の乏しさや残酷さはオウム真理教の松本智津夫を髣髴とさせる。ただし松本を突き動かした、極貧と弱視ゆえのルサンチマンに匹敵するものは松永の半生には見られない。
     彼をそこまでにしたのは、むしろ真逆の
    「保護者による甘やかしと絶対肯定による、エゴイズムの肥大・全能感」
     のように見受けられる。
     なお昨今の若年犯罪者に「おじいちゃん子、おばあちゃん子」が多いという事実も、これにまったく無関係とは言えないであろう。

     純子の母、静美さんはある日、松永に「純子と別れて下さい」と頼みに行った。
     しかし松永はこれを言いくるめたばかりか、静美さんを言葉たくみにラブホテルに誘い出し、関係を持ってしまう。当時静美さんは44歳であった。
     だがもちろん土地持ちの豪農である緒方家の娘・純子を松永が離すはずはない。松永は嫉妬妄想にかられたふりをして純子さんを殴打し、胸に煙草の火で「太」と焼印を押し、太ももにも安全ピンと墨汁を使って同じく「太」と入れ墨を入れた。さらに肉体的暴力だけでなく、家族や親族に無理やり嫌がらせの電話をかけさせるなどして孤立させ、精神的にも追い詰めていった。
     耐え切れず、純子はある日自殺未遂をはかった。しかしこれがまた松永の思うつぼであった。松永は純子に仕事を辞めさせ、両親に向かって
    「婿養子などもらって緒方の家の犠牲になるのはいやです、縁を切ってくれないならまた自殺します」
     と宣言することを強要した。松永はその上で、
    「今となっては純子はお荷物でしかないが、私もまさか放り出すわけにもいかない。彼女が自殺しないよう面倒をみていきます」
     と恩に着せた物言いをして、このときも例の如く緒方家側に『絶縁書』なる書面を作らせている。この騒動により、純子は緒方家から分籍。次女である理恵子さんが婿養子をもらうことになった。
     徹底的に虐げられ、親兄弟からも孤立させられた純子は、以降なすすべもなく松永の従順な手足となって生きていくことになる。


     1985年、銀行融資を受けて松永は布団販売会社を新築。この頃が(詐欺商法まがいだったとはいえ)彼のもっとも羽振りの良かった時期かもしれない。
     しかし酷使と虐待により、従業員は1人逃げ2人逃げ、2年後には従業員は純子を含め2人だけとなってしまう。その上、1992年には詐欺や恐喝などを重ねた末、経営が破綻して石川県へ夜逃げする羽目となった。
     収入がなくなった松永はたった1人残った従業員に、母親に金を無心することを強要。しかし約3ヶ月後、その送金も途絶え、虐待に耐えかねた従業員は逃走した。
     しかし松永がこの会社経営その他詐欺行為によって得た利益は、一億八千万にものぼるという。
     1993年、純子は第一子を出産。しかし相変わらず収入はなく、松永は結婚詐欺を思いついた。ターゲットにされたのは、松永がまだ羽振りが良かった頃交際していた女性だが、当時すでに結婚して子供(3つ子)もいた。
     松永は彼女を口説き落とし、
    「離婚して俺のところへ来い、子供のことも俺が引き受ける」
     と言いくるめて、彼女に家出をさせた。そして北九州市小倉のマンションを、彼女名義で賃貸契約させている。純子のことは姉として紹介した。
     彼女は貯金のすべてを松永に吸い取られ、前夫からもらう月々の養育費まで奪い取られ、親にも金の無心をさせられるなどして、合計1000万円以上を搾り取られた。なお金蔓としての価値がなくなった頃、彼女と子供のうち一人は不審死をとげている。
     一連の事件発覚後、この死と松永との関連が浮かび上がったようだが、残念ながら事件性が立証されぬまま捜査は打ち切られたようである。

     1994年、松永は新たな金蔓を見つけた。
     今度は男で、不動産屋の営業をしていた虎谷久美雄さんである。彼は松永と同い年で、離婚して10歳の娘とともに暮らしていた。
     松永は「新会社を設立するから共同出資者にならないか」と持ちかけ、連日酒の席へ連れ出して、言葉たくみに些細な軽犯罪の過去等を聞き出した。計画がうまくいくまでの生活費は、純子に実家へ電話させ、泣き落としで送金させた。この金額も1997年まで63回に分けて、1500万以上にのぼったという。
     虎谷さんは松永に言われるがまま、新会社の事務所として小倉にあるマンションの一室を自分名義で賃貸契約する。
     そして純子が保育士をしていた経歴を大袈裟に吹聴して、10歳の娘を預かり同居させた。この少女が、のちに冒頭で警察に駆け込むことになる少女である。
     この時期から松永の虎谷さんへのマインドコントロールが始まった。
     虎谷さんが酒の席で口をすべらせた軽犯罪について問い詰め、お得意の書面(『事実関係証明書』と題され、私は~の犯罪を犯した事実を証明しますと書かされたもの)を作成した。松永のやり口は、内容は言いがかり同然でもとにかく執拗で、何度も何度も繰り返し相手の弱いところを長時間にわたって突いていくというものである。これをやられると被害者は次第に消耗して、自分の言い分さえ見失ってしまうのだった。
     これによって虎谷さんはやってもいない犯罪にまで『事実関係証明書』を作られ、それが弱みとなり、がんじがらめになっていった。
     虎谷さんは1995年2月、不動産会社を退社。いつの間にか新会社設立の話は消え、共同経営者どころか奴隷同然の身分になっていく。
     この頃から、虎谷さんへの「通電リンチ」が始まった。食事も制限され、一日中純子による監視がなされるようになった。虎谷さんは松永に命令されるがままに消費者金融から限度額いっぱいに金を借りては渡し、親族、知人など考えられる限りのツテから借金してはそれを渡した。
     しかしそれも1996年1月あたりまでであった。もう虎谷さんに金を作れるあては尽き、一目見てもわかるほどの栄養失調になっていた。松永は虎谷さんの殺害を決心するかたわら、新たな金蔓を探し当てる。次は女性で、また結婚詐欺であった。
     この女性も消費者金融、親族などすべての手段を使って金をぎりぎりまで搾り取られた上、「通電」を受け監禁された。だが彼女は命の危険を感じた末、アパートの二階から飛び降り、腰骨骨折や肺挫折を負いながらも何とか助かっている。
     しかし、虎谷さんは生き延びることはできなかった。
     虎谷さんが受けたリンチは凄惨なものである。
     食事は一日一回で、インスタントラーメンもしくは丼飯一杯。10分以内に食べ終わらないと通電を加えた。また、つらい姿勢や直立不動を長時間強要し、少しでも動けば通電。季節は真冬だったが、一切の暖房器具も寝具も与えず、ワイシャツ1枚で風呂場で寝かせていた。
     栄養失調のため嘔吐や下痢を繰り返すようになると、その吐瀉物や大便を食べることを強要した。その他にも裸にして冷水を浴びせる、殴打する、空き瓶で脛を長時間にわたって執拗に殴るなど、飽かず虐待を加えたという。もちろん「通電」はもっとも頻繁に行なわれた。
     2月20日頃になると、虎谷さんは腕を上げることもできなくなるほど衰弱した。この頃、松永は虎谷さんの実娘である少女に、歯型がつくほどきつく父親の体を噛ませている。
     2月26日、虎谷さん死亡。
     松永は少女に、
    「お前がつけた歯型のことがあるから、お父さんを病院へ連れていけなかった。病院へ連れていったらお前が殺したことがすぐにわかって警察に捕まってしまうからな」
     と言い聞かせ、まだ小学校5年生の少女に『事実関係証明書』を書かせた。内容は「私は、殺意をもって実父を殺したことを証明します」というもので、長い間少女はこの書面に縛り付けられることとなる。
     松永は死体の処理を、純子と少女に一任した。二人は包丁、のこぎり、ミキサーなどを使って死体をバラバラにし、鍋で煮込んだ上、塊は海へ、肉汁は公衆便所へ廃棄するなどして処理した。
     なおこの死体解体の直後、純子は第二子を出産している。

     

    ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

     

     またも金蔓を失った松永は、今度は純子に金を工面することを命じる。
     純子は実家に連絡し泣きついて送金してもらうものの、額が大きくなってきたこともあり、心苦しさに出稼ぎを決心した。
     1997年4月、純子は1歳になった次男を久留米市の伯母へ預け、湯布院でホステスとして働き始めた。長男はマンションに置いたままで、世話は虎谷さんの娘にみさせていたようである。
     しかし純子はいつになっても帰ってこなかった。
     殺人の共犯者でもあり奴隷でもあった純子に逃げられた松永は、取り戻すべく一計を案じて純子の母・静美に連絡をとった。松永と静美さんの肉体関係はまだ続いており、彼は以前より「純子のせいで殺人や詐欺の片棒をかつがされた」と静美さんに吹き込んでいた。
     そのため、緒方家の世間体を案じた父・誉さん、静美さん、並びに妹の理恵子さんが話し合いのため松永のマンションへ出向くことになった。
     これは大きな間違いであったが、松永の口車に乗せられ、純子を殺人の正犯だと思い込んだ緒方家の人々は唯々諾々とこれに従うしかなかったのである。
     面と向かってしまえば、マインドコントロールは松永の真骨頂とも言うべきところである。
     明け方まで寝かせず同じことを何度も何度も執拗に繰り返す、相手の一番弱い所(名家の緒方家にとって、これは世間体だった)を突く、自尊心をくすぐって持ち上げては落とすことを繰り返すなど、一連の手口はもう手馴れたものだった。
    「緒方家から殺人犯を出してもいいのですか、マスコミの餌食にされますよ、家の名誉を何だと思っているのですか」
     と松永は彼らを逆に責め、
    「私が死んだということにして葬式を出しましょう。そうすれば純子は帰ってくるだろうから芝居に協力して下さい」
     と言いくるめた。
     そしてこの芝居にひっかかり、純子は小倉に帰ってくることになる。帰ってきた途端、それまで押入れに隠れていた松永に取り押さえられて殴られ、彼女は家族の前で通電リンチを受けた。純子にとってはこの時、騙されたことよりも、家族が松永の味方をしたばかりか彼の膝下に置かれてしまったことの方がショックだったという。
     松永は純子に命じて、湯布院で世話になっていた人々に電話をかけさせ、罵倒させて絆を断たせた。味方と逃げ場を失くすためである。もう逆らう気力もなく純子はこれに従い、見ず知らずの自分に親切にしてくれたスナック経営者や紹介者に
    「あんな安い給料でこき使いやがって、バカにしてるのか」
    「親切ヅラして私をスナックへ売り飛ばしただろう」
     と松永に命じられるがままに悪態をついた。
     松永はその後、純子がマンションで死体をバラバラにしたことを緒方家の3人に告げ、「家の名誉のため、証拠を隠滅しなくては」と言って配管工事をさせている。これによって彼らに共犯者の負い目を感じさせることが目的だった。
     その上で彼は緒方家の人々に
    「純子は詐欺、殺人などで指名手配となっています。なんとか私が彼女の面倒をみながら逃げ切ってみせますから、さしあたり5年分の逃走資金を調達して下さい」
     と言った。この5年分の逃走資金として呈示した額は、3000万円である。緒方家の人々はそんな金はないと言ったが、松永は土地を担保に借りろと強要。しかし土地の名義は、祖父のものになっていた。

     1997年6月、妻の理恵子さんが毎晩外出していることに気を揉んだ主也さん(緒方家の婿養子)は、彼女を問い詰めた。理恵子さんは渋々、姉の純子が犯罪者であることを打ち明けた。
     元警官である主也さんはそれを聞き、「松永が義姉をたぶらかしたに違いない」として、次回は自分も同行すると言い出した。
     しかしこれもやはり、取り返しのつかない誤りであった。
     松永は一目で主也さんの性格を見抜いた。公務と農協しか社会経験のない純朴さ、婿養子であることのわずかな心の引け目、隠された男のプライド。松永は彼に酒を飲ませ、
    「あなたが跡取りなのに未だに土地の名義は先々代さんらしいじゃないですか。バカにされてるんですよ」
    「緒方家の中じゃあなた、単なる種馬扱いだと言うじゃありませんか、人をなめるのもいい加減にしろという感じですねえ」
    「理恵子さんは意外に男癖が悪いそうで。静美さんといい緒方家の女性は発展家の血筋のようですな」
     とさんざん吹き込んだ。静美の相手とはもちろん松永本人のことなのだが、これは実際地元でも相当噂になっていたらしい。そして理恵子さんとも、松永はもう関係を持っていた。
     赤子の手をひねるように松永に乗せられてしまった主也さんは、
    「あなたがお人よしなのをいいことに、こんなにコケにされ続けて腹がおさまらないでしょう。あんな人たちは殴ってやったってバチは当たりませんよ」
     との松永の言葉のままに、緒方家の人々を順繰りに殴ったという。もちろん酔いが醒めてしまえばただちに後悔し、自己嫌悪することになるのだが。
     こうしてやすやすと松永のかけた罠に捕らえられた主也さんは、二人の子供までも松永に預けてしまうことになる。そしてこの直後あたりから、松永の緒方家一同への「通電リンチ」も始まった。
     供述によると、静美さんと理恵子さん母子を並べて仰向けに寝かせ、同時に性器へ通電するというリンチまで行なっていたそうである。
     母と娘2人を犯し、その関係をそれぞれの夫の面前で吹聴し、なおその性器へ電流を流す。松永は彼らの上に絶対的に君臨し、それを誇っていた。まさにローマ皇帝並みの暴君ぶりだったと言えよう。
     8月、緒方家は誉さん名義で、農協から3000万を借り入れた。担保はもちろん祖父名義の土地である。
     主也さんはこの借入書の保証人になっているが、その前に松永に「これ以上、緒方家の奴隷になっていることはない」と唆され、住民票の住所を変えていた。それを忘れてもとの住所のまま書類を作成してしまったことを松永は「文書偽造だ」と責め、それを何度も何度も明け方まで眠らせずに繰り返す得意の手口で、彼を追い詰めていった。
     発端は些細な、くだらないことでかまわないのだ。とにかく責める糸口さえあればいい。あとは思考能力を奪ってしまう一手だった。
     睡眠不足と心労により、主也さんは9月以降、職場へ出勤できなくなった。そして主也さんへの通電も、ほぼ同時期に始まっている。
     彼らは自由に外出することも禁じられ、完全に松永へ精神的に隷属した。彼の促すままに農協から金を借りては渡し、まだ残っている水田を売却すべく手続きに奔走した。
     その一方、松永は例の「書面作成」の腕前を発揮し、彼らに
    「我々が失踪したのは土地の売却を親族に邪魔されたせいである」
    「私(主也)は妻の首を絞めて殺害をもくろんだ事実を認める(※松永みずからが理恵子さんとの肉体関係を暴露し、彼の嫉妬心を煽った果ての行為である)」
     など何通もの書類を作らせては署名させた。精神的に支配されきっていた緒方家の人々は、これに法的拘束力があるとたやすく信じた。
     しかし祖父や親族が簡単に土地の売却にうんと言うはずはない。
     親族に強硬につっぱねられ、警察が動き始めたことも知らされた松永は、緒方家はもう金にならないと判断した。なおそれまでに彼が緒方家から搾り取った金は、6300万円にのぼるという。

     1997年12月、松永は言いがかりをつけて緒方家の大人たちを並べて正座させ、その場で純子に命じて父・誉さんを通電によって殺させた。死体は残された緒方家の面々が処理せざるを得ない。虎谷さんの死体と同様の手段で、解体し海に捨てたという。
     翌年1月、通電と心理的負担によって精神に異常をきたした静美さんが殺害される。もちろん松永が手を下すことはない。しつこく何度も殺害をほのめかされ、追い込まれた被害者たちの中から主也さんが暗に指名されて絞殺させられたのである。遺体は同じく解体されて処理された。
     2月、度重なる通電によって難聴になっていた理恵子さんを「頭がおかしくなった、邪魔だ」と言い、夫である主也さんに絞殺させる。
     4月、主也さんを虎谷さんの時と同じく、浴室へ監禁し食パンだけを与え、1ヶ月半かけて栄養失調で死亡させる。
     5月、理恵子と主也の子供2人(姉弟)を絞殺。弟を絞殺する際は、わずか10歳の姉に手伝わせたという。
     松永はこうして緒方一家を皆殺しにしてしまったのちも、純子に向かって
    「お前が由布院へ逃げたせいで、全員を殺す羽目になった」
     と、この期に及んでさえすべてを彼女のせいにするのを忘れなかった。

     

     しかし2002年に少女が逃げ出し、警察へ駆け込んだことで一連の事件はようやく明るみに出ることになる。
     祖父母宅へ少女を連れ戻しにやってきた松永と純子を、張り込んでいた捜査員が緊急逮捕。また、少女が長らく世話をしていた四人の子供が児童相談所に保護される。このうち2人は松永と純子の実子であり、残る2人は、母親から養育費を巻き上げるため松永が言葉たくみに預かっていたものであった。

     2005年3月、福岡地裁において検察は松永、純子の両名に死刑を求刑。
     同年9月、死刑判決。
     公判中も一貫して、己の「全能感」をどこでも押し通せると信じ、滑稽なほどたわいない嘘をつき続けた松永は、ただちに控訴した。

     




    関連リンク
    【猟奇殺人】 7人が死亡し、鬼畜の所業といわれた北九州監禁殺害事件
    北九州一家監禁殺人よりやばい事件ってあるの?
    北九州監禁殺人事件について語らない?
    史上最悪の北九州監禁殺人事件
    inserted by FC2 system