新潟少女監禁事件


【事件概要】

  平成2(1990)年11月13日(水)午後7時45分、新潟県三条市内にある駐在所に、近くの主婦が「小学4年生の次女が帰ってこない」と届け出た。その日のうちに捜索が行われたが、発見出来ず。その後も捜索は続けられたが、ついに少女の行方は判らなかった。
  平成12(2000)年1月12日、柏崎市四谷にある佐藤宣行(当時37歳)宅を訪問した保健所の保健婦が2階の宣行の部屋にて、毛布にくるまった女性(当時19歳)を発見。女性はすぐに保護され、三条市で行方不明となった少女と判明する。佐藤は下校途中の少女をさらい、自室に連れ込み生活させた。少女や母親に対する暴力・虐待も日常的にあったようである。女性は家族と実に9年2ヶ月ぶりの再会を果たした。

【少年時代の佐藤】
  昭和37(1962)年7月15日生まれ。両親の年老いてからの子供ということもあり、「ボクちゃん」と呼ばれて溺愛されていた。(成人後も「ボクちゃん」と呼ばれていた。このあたりは大久保清にも通じる)
  小学1年の時、父親が家を新築し、2階の10畳ほどの洋間を自室として与えられる。
  中学1年の時、「怖くて学校に行けない」と言うので精神科の診察を受けたところ、不潔恐怖症と診断された。(会社でタクシーの洗車を日常的にしていた父親も不潔恐怖症だった。) 虫を毛嫌いし、わずかな汚れを気にした。
  中学生の佐藤から見て、70半ばを過ぎた父親は薄汚れて見えるうとましい存在になっており、「あんなのオヤジじゃない」とよく言っていた。
  工業高校時代、体格は大きく175cmほどあったが、覇気がなくなよなよした話し方から”オカマ”と呼ばれていた。学校では目立たない存在だったと言う。この頃から、自分の殻に閉じこもるようになり、家の中で鬱憤をはらすようになっていた。

【少女監禁までの佐藤】
  高校を卒業した佐藤は自動車部品製造の工員となった。ある日、出勤する途中に立小便をした時「クモの巣にかかって汚れた」と家に引き返した。このような奇行が続き、わずか数ヶ月で退職し、その後まったく働いていない。
  昭和56(1981)年7月、19歳の時、父親を家から追い出す。そのあと母親と口論となり、「私も出て行く」と言われたことから激昂。家の仏壇に火をつけ、危うく火事になるところだった。長岡市の国立病院の精神科にて強迫神経症(不潔恐怖)と診断される。即日入院し、向精神薬を投与され、1ヶ月ほどで良くなり退院。
  23歳のなった佐藤は母親に「僕もそろそろ自立しなければならない。お母さんにいつまでも甘えているわけにはいかないので、独立して生活できるように家を増築して欲しい」と話す。
  息子が就職口を見つけて真面目に働くと思った母親は、ただちに700万で家を増築する。しかし佐藤が2階の自室を工事業者に踏み込まれるのを頑なに拒否したため、増築は中途半端なまま中止となり、佐藤が就職するという約束も反固にされた。
  佐藤は母親に対しては好きなアイドル歌手のレコードや、競馬新聞などを買いに行かせており、この母親は商店の人達のあいだで、ある種の有名人となっていた。競馬場の行きかえりも母親が車で送っており、レースが終わるまでベンチに腰かけて待っている母親の姿が、競馬場の常連の間でも知られていた。佐藤が競馬に勝つと、母親になじみの寿司屋で極上のトロのにぎり10個、8000円分を買わせたことが何度かあった。
  平成元(1989)年6月13日、佐藤はいたずら目的で下校途中の小学4年生A子を空き地に連れ込もうとしたが、別の児童の通報により学校事務員に取り押さえられた。
  9月19日、新潟地裁長岡支部は佐藤に対し懲役1年、執行猶予3年を言い渡す。10月5日、刑が確定。
  裁判官は再犯の可能性は低いとして、保護観察処分ではなく、母親に監督・指導を任せた。ちなみにこの事件について柏崎署と新潟県警本部は強制わいせつで検挙した佐藤を「前歴者リスト」に登録しておらず、刑が確定したあとも登録漏れのまま放置していた。

【監禁】
 平成2(1990)年11月13日、下校途中の少女をナイフを突き付けて脅し、車のトランクに押し込め、自宅に連れ込む。部屋に連れ込むと数十回に渡り少女を殴打した。「出られないぞ」「俺の言うことを守れ」と言いつづけ、ナイフを少女の腹部に突き付けて「これを刺してみるか」「山に埋めてやる」などと脅した。逃げられないように佐藤の外出中は少女を縛りつけていた。
  平成3(91~92)年ごろ、母親に買わせたスタンガンを少女に押し当てて放電し、大変な恐怖心を植えつけた。大声をあげると佐藤の罰があるので、少女は自分の腕を噛み痛みに耐えていた。少女に「おじさん」と呼ばれると激昂し、少女を殴った。少女に競馬番組のビデオ録画を命じ、忘れたりすると殴打した。
  少女は常にベッドの上にいるように指示し、守らない場合は罰を加えた。用便すらも部屋から出さず、ビニール袋の中にさせた。少女がベッドから落ち、埃まみれになった時のただ一度しかシャワーを使わせなかった。このような生活により、両下肢筋力は低下、骨量も減少しており、歩行も難しくなった。
  初めのうちは、母親が作った夜食用の弁当を少女に与えており、途中からコンビニの弁当(おにぎり)に切り替えた。平成8(96)年頃からはそれまで1日2個与えていた弁当を、一個しか与えなくなった。小学4年生時に46kgあった少女の体重は、38kgにまで落ち、失神するようになった。
  佐藤は少女の服を自分で買うことも、気づかれないために母親に頼むことも出来ず、ショッピングセンターで万引きして洋服を入手していた。
  母親の要請により、佐藤の精神病院入院のために訪れた保健所の職員などが自宅を訪れたことにより発覚。


【佐藤の父親】
  東京の大会社の重役を送迎する運転手をしていたが帰郷し、柏崎市内でタクシー会社を設立、専務取締役。61歳で再婚し、誕生した一人息子を溺愛する。父親81歳の時、息子に家を追い出される。以後、異母姉の家に避難。
  その後、老人介護施設に入所していたが、少女が佐藤宅に連れてこられる前の年に亡くなっている。

【母親】
  若い頃、心中騒動を起こし、婚期が遅れて35歳で26歳年上の夫と結婚(初婚)。職業は保険外交員。45歳の時、息子を精神科に連れて行くために自動車免許を取得。営業成績が上がった。
  平成3(1991)年4月(当時64歳)、柏崎市内のホームセンターでスタンガンを購入。少女発見まで20年以上も息子の部屋には入っておらず、少女の存在も知らなかった。
  この頃には母親の生保の外交員の仕事もほとんどなくなっていた。だが若いころに実績をあげていたため、60歳の定年を5年延長できた上に、定年退職後も嘱託として仕事を続けることが出来たが、もう契約はほとんどとれなくなっていた。佐藤の暴力は激しくなり、心底おびえた母親は午前10時から午後4時まで500円で居つづけることのできる「カンポの宿」で時間をつぶすことが多かったという。
  母親はもう限界だった。「このところ息子の暴力がひどい。自分の意のままにならないと殴る蹴るのうえに、私を縛り付けて、トイレにさえ行かしてくれない」
  平成11(1999)年12月、73歳になった母親は、息子の暴力が激しくなってきたことから、市内の精神病院へ相談に行き「息子を入院させてください」頼んだが、「本人を連れてきなさい」と言われる。しかし当然、佐藤は拒否。医師は「これ以上同居させておいては母親の身が危険」と判断し、自宅に乗り込むことを決めた。
 翌年1月28日午後1時半頃、精神病院の副院長、弁護士、保健所職員など7名が佐藤宅を訪れる。少女発見となった。「靴はないの。外に出られないから」 保健所職員などに付き添われて、家を出ようとした際、少女はそうつぶやいたという。


【裁判】
  平成14(2002)年 1月22日  新潟地裁・榊五十雄裁判長は佐藤に懲役14年を言い渡す。
    1月24日  佐藤の弁護人は不服として東京高裁に控訴。
    12月10日 東京高裁・山田利夫裁判長は一審を破棄、懲役11年を言い渡す。
    12月24日 佐藤は2審の東京高裁判決を不服として、最高裁判所に上告。
  平成15(2003)年7月10日、 最高裁は2審の懲役11年を取り消し、佐藤の上訴を棄却。

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